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やなぎみわ [日本アーティスト序論]


ピクチャ-3.jpg

◆◆1 《自己愛》性人格障害者集団を、超えて◆◆◆◆◆◆◆◆◆

昨日、やなぎみわ の東京都写真美術館での『マイ・グランドマザー』
というシリーズの展覧会を見て来ました。

実は、以前に美術手帖の『日本アーティスト序論』で取り上げられてい
る20人くらいの作家を、このブログで、端から全部芸術分析をしよう
という、壮大(笑)な企画をたてたのですが、
この やなぎみわ の前で止まってしまっていました。

やなぎみわが今年のベネチアビエンナーレの日本の代表になっている事
もあります。今、一番評価されている作家にも関わらず、
私自身が、やなぎみわに対しては批判的であったからであります。

だいたい、私の評価しない作家は、日本の現代美術界では評価が高く、
私の良いと思う作家は、評価されないのです。
それは、芸術そのものの評価軸が違うからでしょう。


そういうこともあって、
やなぎみわに、
批判的であったからこそ、学問として、
そして批評としてフェアに書きたいと言う思いがあって、
この写真美術館での展示を見てからと、思っていたのです。

他の作家を批判するのが、その作家をおとしめたり、
足を引っ張るためにやっているのではないのです。

なぜに、他の作家を見るのか?
他者を見る中でしか、現実を見る事が出来ないからです。
現実どころか、自分自身を見る事も、語ることも、
出来ないからです。

それと、現在の批評の不在を、
自分なりに切り開きたいからです。
私自身は、批評を読むのが好きです。
スーザン・ソンタッグや、ロザリンド・クラウスといった
女性の書き手が好きでした。

つまりラカンの鏡像理論が示したように、
自分自身の顔が直接には見られなくて、
鏡に写すとか、写真で見る以外にないのに対して、
他人の顔や、姿は鮮明に見えます。

作品も実は同様で、自分では自分の作品を捉えるのが、
むずかしいからこそ、他人の作品を透して、
芸術について考えるのが重要なのです。

そして批評という視点や芸術分析という方法で芸術を見る事が、
芸術を理解するのに有効であると考えるからです。
芸術というのは、あくまでも実際の作品を通して
出現するものだからです。

ところが、日本の美術界では、
「他人の作品を見るとマネをすることになるから、
見ない事にする」という、変な風潮が作家の中に蔓延しています。

こういう主張は、何人もの作家が、異口同音に言います。
批評家でも、某氏は、「俺は自分の頭で考えるから、他の奴の文章は
読まない」と公言していました。

そのくせ面白い事は、そういう事を言う作家や、批評家は、
自分の作品は見に来て欲しい、読んで欲しいというのです。

これは間違いです。
理論矛盾でもあります。
つまり、「他人の作品は見ない。他人の文章は読まない」というのは、
《自己愛》性人格障害者特有の迷信なのです。

マネをするという模倣マシーンになってしまうのは、
《想像界》の人格しか無い、
子供の人格の弱さなのです。

人格を《象徴界》《現実界》まで分化させて、
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な作家主体を
持って、総合力をつければ、
簡単な形では、他人を真似する事にはなりません。

自分の人格を成長させる事は、
作家として大きくなるためには、
人格を発展させることは、重要な事なのです。

ところが、現在の日本のアーティストは、
未熟で子供である事が、すぐれたアーティストになることだと、
錯誤しているのです。

それは岡本太郎からの悪しき伝統です。
しかし岡本太郎は、人類史の中で見れば、
まったく愚劣な作家に過ぎないのです。
岡本太郎は【B級美術家】です。
岡本太郎よりもすぐれたアーティストは、
いくらでもいるのです。


他の領域を見れば、他人の仕事を良く見ています。
建築の人々は、他の建築家が作った建築を実際に見るために、
良く見て歩きます。
建築ツアーを企画するのです。
私も参加しています。
他人の建築を、たいへんに厳しい眼で見て、批評をしています。

将棋とか碁の棋士たちも、他人の戦いを良く見て、勉強しています。
新しい手は、日々生み出されているので、他人の戦いを見なければ、
自分が実際の戦いで接した時に、対応を取るのが遅れてしまうからです。

戦争もそうであって、たとえば湾岸戦争や、イラクの戦争を、
アメリカ軍がやれば、各国の軍事専門家は、戦地に行って、
見学するのです。武器の威力や、戦闘のやり方を研究して、
自分の実際の軍事力の実力や、整備の方向を考えるのです。

他の国の軍備や戦争の仕方を良く見ておかなければ、
いざ、戦争となった時に、負けてしまうからです。
彼を知り、己を知れば、百戦百勝」と、孫子の兵法にあるように、
他者を知る事こそが、己を知る事になるという基本があって、
こういう基本を欠いている《自己愛》性人格障害者は、
戦争には負けるのです。

詩人も他の人の詩を、良く読んでいます。
たとえば建畠哲氏は、美術評論家や国立国際美術館の館長である
だけでなくて、詩人でもありますが、
彼は良く、他の詩人の詩集を読んでいて、詩人を批評する力は、
大変にある方で、私は詩人として尊敬しています。

美術家自身も、他人の作品を一生懸命に見に行って来た、
歴史があります。
例えば、アメリカを代表する彫刻家のデヴィッドスミスは、
同時代の作家を良く見ています。
レオナルド・ダ・ヴィンチにしても、
最後の晩餐は、多くの先人の作品を見た上で、描いていると思われます。

先人の美術を多く見て、
その検討を通して、
美術や芸術について考えて行く事は重要なのです。

◆◆2  B級エンターテイメントの作品◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

yanagi_redhead_gmother.jpg
《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント

《想像界》の作品、固体美術。

実体的美術(エンターテイメント)

《気晴らしアート》《ローアート》
シニフィエ(記号内容)の美術。

《原始平面》『ペンキ絵』【B級美術】


この写真は、写っているモデルが本当に怖いのが分かる
楽しい写真で、運転している運転手の面白がっている軽薄な表情も、
リアルです。

しかし、それ以上の面白みはありません。
確かに、やなぎみわが言うように、作品になっていると思いますが、
すぐれた【A級美術作品】になっていないのです。
【B級美術】です。
一級の芸術作品としての、面白みが、凝視していても、
見えてこないのです。

この『マイ・グランドマザー』というシリーズは、
モデルの若い女性が、自分の理想の未来の老人になった時の設定と、
ストーリーをつくって、それをバーチャルに再現しているという、
作品らしいのです。

ですから、歳をとって、オートバイに乗って走るという、
夢を、このモデルの女性は持っているのでしょうが、
そういう設定は分かりますが、
そうしした老いにたっしていく意味が、見えて来ません。

このモデルが、オートバイに乗り続けて歳を取っていたとすれば、
このような、ジェットコースターに乗ったような、恐怖に満ちた顔は、
しないでしょう。

設定そのもののなかに、時を経て、老いて行く事の人生の重みや、
空しさや、そして成熟が、無いのです。

あるのは、ジェットコースターに乗る様な遊園地的な《気晴らし》の
面白さです。


女性と言うか、老婆の部分が明るくなっています。
照明を当てている可能性もありますが、
走っているものですから、カメラの角度から考えて、
車体に取り付けたカメラからの撮影だろうと思います。
したがって、老婆が明るいのは、後からの操作だろうと、
かってにですが、推測します。

それを昔のアナログ写真では「おおい焼き」といいましたが、
現在はコンピューターのPhotoshopで、
デジタル的に調整が出来ます。

yanagi_redhead_gmother2.jpg
その構造を分かりやすくするために、
Photoshopで、明度を落とし、コントラストを強く加工したものを、
お見せします。

やなぎみわの作品は、主題である演じられた老婆を明るくして、
目立つようにした、分かりやすく加工されている写真であることが、
分かります。
こういう やなぎみわ の作品の作り方をすると、
作品は実体化し、説明的なものに、退落してしいます。

空間も、《原始平面》化して、真性の深いイリュージョンが生まれて
こなくなります。《第6次元》化して、《6流》の美術になって
しまうのです。

やなぎみわ の作品は、説明的なものなのです。
しかし芸術作品においては、説明的な作品は【B級美術】なのです。

そして、実体的です。
すぐれた作品は《非-実体性》のあるものであって、
実体的な作品は、ラスベガスのショーにでてくるような
エンターテイメントなのです。

ですから、やなぎみわ のさくひんは、これはすぐれた芸術作品という
ものではなくて、娯楽映画に見られるエンターテイメント作品の構造
なのです。


やなぎみわ の作品は、大型写真で、たぶんですが、ラムダプリントでの
出力らしく、きれいではあります。
そしてモデルと良く相談しながら、老婆に扮しさして、さまざまな設定
の物語の中で、写真が、大掛かりにフィクショナブルに作られています。

それは娯楽だけのためのB級映画のスチール写真のようなものに見えます。

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《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント

《想像界》の作品、固体美術。

実体的美術(エンターテイメント)

《気晴らしアート》《ローアート》
シニフィエ(記号内容)の美術。

《原始平面》『ペンキ絵』【B級美術】

やなぎみわの作品が持つ、通俗性と娯楽性と、説明性は
昔の東宝映画の雰囲気です。

なにか、ピーナッツが出てくる『モスラ』の南海の島のようです。
そこに、巫女の女性がいて、南海の楽園を支配している。

向こうに見える奇妙な岩は、ゴジラの出現のようにも見えます。

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この映画には、かわいらしいザピーナッツが出て来て、
歌を歌ったのです。

ピーナッツのレコードを私が買ったのは、
小学生高学年だったと思うのですが、
それが次のアルバムです。

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そしてピーナッツも歳を取って行きます。
pea-2.jpg
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そして、引退して、
老いた姿は、見せてくれません。
ネットで探しても、見つかりませんでした。

老いというのは、そうしたものです。

Mika_MG_web.jpg
先ほどと、同じ様に、明度を落として、コンストラストを上げると、
このように、中心の人物だけが浮かび上がる構造をしています。

こういう実体的な構造の写真が、芸術作品として面白いのでしょうか?

娯楽的で「面白いでしょう」と言っている作品ではありますが、
別に、ハリウッドの大規模な映画と比較してみれば、
特にどうというものではないのです。

waterworld.jpg
Waterworld-1.jpg
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私は、ケビンコスナー主演の『ウオーターワールド』を劇場に見に行って
います。1995年の作品です。

やなぎみわのデビューが1993年ですので、同時代の映画であったのです。

『ウオーターワールド』は、たいへんに大掛かりでしたが、つまらない
映画で、「海のマッドマックス」と言われます。

同じ様な事は、やなぎみわにも、言えるのかもしれません。
たいへんに大掛かりではありますが、つまらない写真作品で、
「日本のシンディー・シャーマン」という評価です。
【続きは下記をクリックして下さい】
B級娯楽映画の構造を、現代美術のメタ構造の中に持ち込んで、
新鮮な驚きを与えたのは、シンディーシャーマンでした。
それが1970年代の半ばでした。
それを30年近くもたって、今度は、日本の女性作家が焼き直している。
リメーク作品に見えるのです。
ハリウッドが、日本映画をリメークしますよね。
あれと同じ事の逆を、やなぎみわ が、やっている。

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こういう調子で、日本の美術家が、シンディー・シャーマンの
“アンタイトルズ・フィルム・スティール"シリーズというB級映画
構造のネタの作品を、
リメークしたのが、やなぎみわ なのではないでしょうか?

◆◆3 シンディー・シャーマンとやなぎみわの比較◆◆◆◆◆

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《想像界》の眼で《超次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《超次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《超次元》の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

《シリアス・アート》《ハイアート》

シニフィエ(記号内容)の美術(=情報文明の芸術)
《透視画面》『オプティカル・イリュージョン』【A級美術】

さて、そこで、《超次元》のシンディーシャーマンと、
《第6次元》のやなぎみわを、
比較してみます。
その芸術性の落差を、良く見て下さい。

選んだ写真は次の様なものです。
女の人がしゃがんでいるのと、両方とも、カラーであることを
目安にしたチョイスです。

色はいじっていません。
ネットで取って来たままです。
やなぎみわ の作品のくすみは、東京都写真美術館で見ても、
同様の印象があります。




shermanやなぎみわ.jpg
やなぎみわ          シンディーシャーマン
《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン 《想像界》の眼で《超次元》の《真性の芸術》 
《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン 《象徴界》の眼で《超次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第6次元》のデザイン 《現実界》の眼で《超次元》の《真性の芸術》

《想像界》の作品。           《想像界》《象徴界》《現実界》の3重層的な表現
  固体美術。                気体/液体/固体/絶対零度の多層的な表現
実体的美術(=エンターテイメント)          《非-実体的美術》(=芸術)

《気晴らしアート》《ローアート》              《シリアス・アート》《ハイアート》
シニフィエ(記号内容)の美術。     シニフィエ(記号内容)の美術

《原始平面》『ペンキ絵』       《透視画面》オプティカル・イリュージョン
【B級美術】              【A級美術】

こういう風に比較すると、多くの人や、日本の学芸員諸兄が想像する
以上に、やなぎみわと、シンディーシャーマンが、似ている事に、
気がつかれると、思います。

通俗的な物語の了解性を求める観客ならば、やなぎみわ の方が、
好きではありましょう。
そして通俗的な多数の観客は、シンディーシャーマンの作品は、
何の意味があるのか、物語が分からないと言って、嫌うのでしょう。

しかし少数の芸術を評価できるすぐれた観客の目で見れば、
シンディーシャーマンの方が、芸術家として、やなぎみわよりも、
ズーと上であると、見て取る事が出来るでしょう。

つまり、やなぎみわは、素人むけの【B級アーティスト】であり、
シンディーシャーマンは、芸術の玄人むけの【A級アーティスト】
なのです。

そして日本の現代美術界は、【B級アーティスト】の団体展なのです。

ですから、日本にもいる《超次元》《第41次元》のためには、
インディーズレーベルの、新しい、小さなギャラリーを
作る必要があります。
そこでは玄人むけの【A級美術】だけを、彦坂尚嘉の責任を明示して
扱う。そういう気体分子ギャラリーを立ち上げる必要があるのです。

◆◆終章 芸術の《非-実体性》◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

cindy1-6459.jpg
シンディーシャーマンのこの作品は、実体的でしょうか?
やなぎみわ の作品同様に、明度を下げ、コンストラクを強くして
見ます。
cindy1-6459S操作.jpg
やなぎみわ の場合は、女性だけが明るく目立っていましたが、
シンディーシャーマンの場合には、分けの分からない左下の帽子の男
が、重要な存在になっています。こうした多義性こそが、
芸術なのです。

sherman06.jpg
この作品も、シンディーシャーマンの中では有名なものですが、
これを暗くしてみます。

sherman06操作.jpg

暗くしてみると、分かる事は、中心の女性よりも、
周辺の布のシワの方が目立つように、作品が作られている事です。

こうした、描くべき作品主題よりも、周辺部を目立つように、
きちんと作り、周辺部の主題にとって付属的なものを、目立たせると
いうのが、芸術を《非-実体》として構成する基本技術なのです。

江戸時代のお洒落ですと、着物の目立つ表面は地味にして、
裏地を強く輝く赤にするとか、
下駄の下の裏の見えないところに、金箔を貼るとかするのが、
基本だったのですが、こういうのが、何でもないものを芸術にする
技術の基本なのです。

文学でも同様で、『老人と海』などで有名なアメリカの文学者である
アーネスト・ヘミングウェイ の文学技法も、この《非-実体性》を
作り出す事にあります。
私が若い時に読んだ文学の教科書に書かれていたのは、銃殺の文章で
した。それは新聞記事が下敷きに書かれたもので、有名な政治家が、
逮捕されて、銃殺されたと言う、その報道記事でした。
新聞は、その銃殺の様子をきちんと書いているのですが、
これを下敷きにしたヘミングウェイは、銃殺そのものの克明な事は、
書かないで、その日、雨が降っていて、その処刑場には、冬で、
枯れ葉がたくさん落ちていて、その枯れ葉が、雨にぬれて光っている
という描写を延々と書いているのです。

日本では、逆の常識があります。たとえば石原慎太郎の『太陽の季節』
という芥川賞を取った作品では、若い男が、男性性器を勃起させて、
そのチンボコで、障子の紙を破るという、下品な描写がされていて、
話題になったのです。こういう描写は、実体的で、エンターテイメント
の技法なのです。

若松孝二の『壁の中の秘め事』というドイツベルリン映画祭で受賞した
作品では、茄子やキュウリという野菜で、自分の妹を強姦する描写が
黒々と描かれていますが、これも下品で、ピンク映画という、
実体的で、エンターテイメントならではの、描写方法なのです。

石原慎太郎が、阿部 和重が2005年に芥川賞を受賞した作品
グランド・フィナーレ』では、「肝心な部分が描かれていない」と
批判していたのが、印象に残りました。

この『グランド・フィナーレ』という小説は、自分の娘のヌード写真
撮った事がばれて、妻から離婚されて失職したロリコン男性の物語
ですが、このロリコン行為が、むき出しには描かれていないところを、
石原慎太郎は批判していたのです。しかしそうしたロリコン的性描写
などという下品な事は、描く必要の無い事で、むしろ周辺部の、
分けの分からない些細な日常の描写の積み重ねこそが、このロリコンを
主題にするときの文学技術なのです。

つまりロリコンのポルノを描く、エンターテイメントとの技術は、
実体的描写で、
純文学として描く場合には、肝心の汚い性行為は描かないで、
付属する意味の薄い周辺部を描く事が重要なのです。

肝心の性行為をいくら、むき出しに描いても、実はそういう即物
的な、アダルト画像的な下品な世界は、すぐに飽きてしまうのです。
ですから、アダルト画像ですむことは書かないで、別のことを描く。
そうする事で、作品に《非-実体性》が与えられるのです。
それが《真性の芸術》なのです。

ここでは、問題になるのが、
「芸術とは何か?」という、基本的な問いなのです。
この本質的な問いは、「人生とは何か?」、
人間の自分の死とは何か?
といった、人生の根本に関連する本質的な問いなのです。
それは「老いとは何か?」という問題でもあります。
こういう問いをたてると、人は躓(つまず)くのです。

答えられないからです。
「芸術とは何か?」という問いも、
答えられない、多義的で、定義が8個以上ある複雑なものなのです。
しかしその中心に、ラカンが言った《対象a》があります。
これは、フランス語なので「たいしょうアー」と読みます。
《対象a》というのは、失われたもの、存在しないものに、
人間が引きつけられると言う、《非-実体性》のことです。
《真性の芸術》の根幹には、この《対象a》があるのです。

シンディーシャーマンの作品には、《対象a》の《非-実体性》がありま
すが、やなぎみわ の作品は、実体的で、《対象a》がありません。

だから、【B級映画】的なエンターテイメントのつまらなさに、
満ちた作品なのです。
だからこそ、日本の美術館の学芸員に受けて、次々と企画が立てられて、
今年のベネチアビエンナーレにまで、出品されます。

こうした展覧会が開かれる事自体は良いと思います。
作品を見て、【B級映画】的なエンターテイメントを見て、
楽しむ人が、10人中8人は、いるからです。

多くの人には、芸術の《非-実体性》は、分かりません。
多くの人は、実はエンターテイメントを求めているのであり、
《気晴らしアート》を求めているからです。

こうした10人中8人の人々の欲求を満たす、
矮小なエンターテイメント・アーティストが、やなぎみわなのです。

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