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吉本隆明の顔 [哲学]

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吉本ばななが、
固体の人と言うのはちょっと意外でした。吉本隆明さんもそうなのでしょうか。
by コア (2008-04-04 13:37)

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

コアさんは、上記のようなコメントくださった。
これに答えて、
吉本隆明の事を書く。

まず、吉本隆明は、液体の人、
つまり近代人である。

それに対して、娘のばななは、固体の人。
つまり前近代人である。

ばななは、退化したのである。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

さて吉本隆明の顔である。

《イメージ判定法》で《31流》。
《言語判定法》で《8流》。
《現実判定法》で《8流》。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

《想像界》の人である。
《象徴界》と《現実界》は無い。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

他の哲学者の顔を比較してみよう。

吉本ニーチェ.jpg

吉本と、ニーチェである。
目つきの水準が、格段に違う。

ニーチェの顔である。
《イメージ判定法》で《超1流》。
《言語判定法》で《超1流》から《41流》の多層的重層的人格。
《現実判定法》で《超1流》。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

《象徴界》の人である。
《想像界》と《現実界》は無い。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

ニーチェと比較した時に、
一番大きいのは、格の差の大きな差もさることながら、
ニーチェが《象徴界》だけの人であるのに対して、
吉本隆明は、《想像界》の人である事であるのです。


吉本西田.jpg

吉本隆明と、西田幾多郎である。

吉本が《31流》《8流》《8流》であるに対して、

西田幾多郎は、
《イメージ判定法》で《1流》
《言語判定法》で《超1流》
《現実判定法》で《1流》

吉本が《想像界》しかない人格なのに対して、
西田は、《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもっていて、
格段にすぐれている。

吉本が液体人間であるのに対して、
西田は、絶対零度/固体/液体/気体の4様態を持っている。

人格的精神的な、総合力が違うのです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

思想家として見ると、
吉本隆明は、《想像界》の《31流》《8流》《8流》の人で、
ずいぶんと落ちるのです。

繰り返しになりますが、
《想像界》の人であるというのは、
思想家としては、どうしようもない事で、
基本的な才能が欠けているのです。

分かりやすく言えば、
子供が、思想家ごっこをして、
そういう振りをしているという、遊びの世界なのです。


なぜなら、思想と言う言語領域は、《象徴界》の世界だからです。

いや、吉本隆明は、歳をとったからであって、
若い時には、違うと言う意見もあるかもしれません。
もう少し吉本隆明の顔を見てみましょう。

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若き吉本隆明である。
《イメージ判定法》で《8流》。
《言語判定法》で《8流》。
《現実判定法》で《8流》。

若い顔には《31流》性はないから、
《31流》というのは老人性ということを意味していたと思う。

しかし典型的な《8流》の人である。

《8流》というのは信仰の世界です。
創価学会の信者のようなものです。

自分の信じることにこだわる新興宗教の信者の様な思想家であったのです。
その世界認識は、信心を超えた説得力を持つものではなかったのです。

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私自身は、1960年代の後半から、
吉本隆明の本を、かなりの分量読んで来ています。
しかし、何も覚えていない。

優れた思想というものは、
言語が、ピラミッドの様にガンとして存在しているのですが、
この人の言語は、《想像界》の言語であって、
ファンタジーに過ぎず、
まぼろしのように消えてしまったのです。

目だと言うことを思い知らされたのは、
だいたいで、いいじゃない。 (文春文庫) を
読んだ時です。

「だいたいで、いいじゃない」という題名が示している様に、
これは日常の自然的な態度での言語世界です。

それは思想ではないです。
何よりも《象徴界》の言語領域ではない。

哲学というのも、一種類とは言えないところがあるのですが、
《象徴界》の言語というのは、説明をしないものなのです。

たとえば《象徴界》の言語というのは、
「なんじ、人を殺すなかれ」という戒律が典型的です。

これは「なんじ、人を殺すなかれ」という言語の戒律として存在するだけで、
それ以上の細かいさまざまな現実の多様性を言わないのでs。

戦争でも人を殺してはいけないのか?
正当防衛はどうなるのか?

といった現実の世界の外に、戒律言語は「物差し」ととして、屹立するのです。
いっさいの説明も、議論も、証明もないのです。

思想というのも、様々な次元がありますが、
《象徴界》の言語というのは、こういう「物差し」の言語なのであって、
日常に於ける多様な、自然な世界ではない。

「物差し」というのは、1メートルは、1メートルとして厳密にメートル法を
組み立てなければならないのであって、
だいたいでは駄目なのです。

だからといって実は「物差し」は多様であります。
メートルだけでなくて、尺貫法でもいいし、
ポンドヤード法でも良いのである。

どうにでもなるのです。
しかし基準として確立したら、動かしては駄目なのです。
北極星のように、相対的に出はあるが動かない事で、機能するものであるのです。
それがだいたいでは、駄目なのです。

根本の問題は吉本隆明の精神構造が、
《想像界》しかないことで、これでは思想ではなくて、
戯言なのです。

彼の昔の著作は、今からは読むに耐えないのではないでしょうか?

思想家を、読む前に、まず人相で見ておこうと思ったのは、
こうして吉本隆明の戯言を読んで来てしまった私の体験によります。
たとえば、次の様な思想家の顔を見て欲しい。
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顔を見て、検討をつけてから読むという方法になったのは、吉本隆明への失望からなのです。基本的に《想像界》だけしかない思想家は、戯言にすぎません。だからといってつまらないと言っているのではないのです。戯言なのです。たとえば、ボーロリヤールの顔を見てみましょう。
ボードリヤール.jpg
《イメージ判定法》で《8流》。《言語判定法》で《8流》。《現実判定法》で《8流》。
《想像界》しかない人格。気体人間。つまり現代人である。
ボードリヤールは、《8流》で《想像界》しかない思想家として、吉本隆明ソックリの人であるのです。
違いは吉本が、液体人間(近代人)であるのに対して、ボードリヤールは、気体人間(現代人)で、新しかったのです。
言い換えると、吉本隆明は、本質的に、古いのです。

ボードリヤールも、ずいぶん買ったし、買ったものの半分くらいは読んだのですが、しかし基本的に戯れ言であったのです。






タグ:吉本隆明
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コメント 1

NO NAME

ごめんなさい。何をおっしゃられてるかさっぱりです。
by NO NAME (2012-06-05 18:07) 

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