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湯浅譲二の電子音楽(3) [音楽]

湯浅30.jpg

サンプルにしたのは、1枚のCDで、

《葵の上》(1961)
《マイ・ブルー・スカイ第1番》(1975)

このCDについては、すでに野々村 禎彦さんが、
批評を書いている。
http://www.web-cri.com/review/disk_aoinoue-nono_v02.htm

《葵の上》に対して、
「純粋に音楽的に聴くと、声の素材があまりに生の形で使われ、具体音や電子音の選択もテキストの意味性に引きずられすぎているという印象は否めない。」という感想は、同感だが、
問題はそれ以上の所にある。

湯浅譲二の音楽は、《超1流》《超1流》《超1流》という
すぐれたものなのだが、
しかし《1流》性が無い。

人類史の中で見て行くと、《1流》性こそが、芸術の基盤なのであって、
その基盤を欠いている。

同じ問題を、湯浅と同時代の建築家・菊竹清訓に見いだせる。

菊竹 清訓(きくたけ きよのり、1928年〜)は、日本の建築家。
2000年に「今世紀を創った世界建築家100人」に選ばれているほどの大建築家であり、
また1960年代後期から70年代にかけ、黒川紀章らとともにメタボリズムを提唱し、世界的に日本からモダン建築の新しい思想を発信した人物である。

しかし菊竹の建築は、《超1流》性はあるが、
何かが欠けているのである。
それが彦坂流に指摘すれば《1流》性が無い事である。

《1流》というのは、社会的な常識であり、
社会的理性である。
それは人類が文明を形成した時期に成立し、
そして伝承の中で維持されて来た世界である。

人類の狩猟採取期の制作物は、それこそ縄文式土器(中期まで)は
《6流》である。
《6流》というのは自然領域である。
それがエジプトでも、インドでも、中国でも、文明が成立すると、
突如として《1流》の制作物が登場する。
ピラミッドも、古墳も、埴輪も《1流》である。
《6流》から《1流》への飛躍に文明の発生がある。

従って《1流》性というのは、
文明的基準と言える。
この後に《2流》や《超1流》が出現してくる。

菊竹も、湯浅も、この伝承的な文明の《1流》性がもつ形式性や、
《1流》の常識的理性の外に出る事を目的化しすぎて、
それを維持する事を忘れているのである。

そのために、もう一つの深い感動や、
多くの人を説得する力を欠いているのである。

つまり先人が形成して来た文明の根本の継承性を、
見失っているという、
文化人としての基本の欠陥があるのである。

そうした性格と《葵の上》という伝統的な能の音楽の変形曲というのは、
ミスマッチであるのだ。
一見、伝統的継承性がある様に見えて、
音楽を聴くという事の本質的な理性性や常識性である《一流》性が、
ここには無い。
ただ単なる伝統的能の、前衛的変形作業に過ぎない様にしか見えない。
そこにあるのは単なる手続きと操作であって、それ以上の
音楽を愛して聴くという《1流》性がたち現れない。
愛せないのだ。

人々は、
驚くほどに《1流》のものを深く愛する。


そう、愛せないのだ。
湯浅譲二の音楽を、愛せない、
深く愛する事ができない。
愛聴できないのだ。

同様のことが、まったく正反対の電子音楽である
《マイ・ブルー・スカイ第1番》(1975)にも言える。
地球に生きている多くの凡庸な人間の中に培われて来た、
文明としての音楽が無いのである。
あるのは大宇宙の死の現実界である。
それは《空》であり《無》である。
何の意味も形成しないのである。

もちろん、その《空》や《無》に、
深い意味を感じる聴衆もいるのであろう。

確かに、良くはれた青空のように美しい音楽だとは言えるのだが、
しかし、青空の様な美しさは、芸術ではないのである。

湯浅譲二の音楽は、象徴界性を欠いている事においては、芸術ではない。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

シンポジウム会場で湯浅氏のお話を聞いていても感じたのだが、
作曲が、依頼を受けてなされているものが多いようである。

つまりコミッション・ワークと、美術では呼んでいる注文仕事である。

湯浅氏の音楽は、確かに手間ひまお金のかかった音楽だが、
しかしコミッションワーク特有の、影の薄さを感じる。

もっとも建築も、建築家が自邸を建てる場合以外は、
注文されて建築を建てているのだから、同じではある。
しかしICCで見せられた様なメディアアートの場合に似ている様な事情が、
湯浅氏のような電子音楽にはつきまとって来たのではないか?

つまりスポンサーがいて、お金をかけて、実験的で、革新的で、
未聴感のある音楽や、映像や、作品をつくる。
しかしそれはあくまでもスポンサーの手のひらに上の表現であって、
表現として、真に自立していない。

湯浅氏が音楽をつけた映像作家の松本俊夫氏の実験映像作品にもこれは言えて、
そうしたコミションワークの限界が、感じられるのである。

スポンサー付きのこうした実験作品や前衛作品の本質的な弱さやつまらなさというのは、
美術の方からは、
どうしても見えてしまう。

前衛や実験に、自発性の命がかかっていないのである。



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共通テーマ:日記・雑感

コメント 3

有馬純寿

コミッション・ワークについてですが、作品そのものが購入される可能性がある美術作品と異なり、クラシック音楽の延長上にある「現代音楽」ではその多くが委嘱作品つまりコミッションワークといえるかと思います。

とくに、キャリアのある「プロ」の方の作品は、映画音楽や劇伴はもちろんのこと、コンサート用の作品でもほぼすべてがコミッションワークと言えるでしょう。
ただこの委嘱主は企業や財団等ではなく、演奏家個人からのものも多く含まれます。
これは日本だけのことではありません。

その意味ではメディアアートと映像作品とも異なる状況といえるのはないかと思います。
by 有馬純寿 (2008-03-30 12:12) 

キタコレ

ぐっじょぶd(´∀`*)グッ★ http://gffz.biz
by キタコレ (2012-03-12 14:59) 

リッチドール

本番OKらしいです(*´д`)ノ→ http://44m4.net/
by リッチドール (2012-05-26 10:25) 

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