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やなぎみわ/B級エンターテイメントの世界 [日本アーティスト序論]


ピクチャ-3.jpg

◆◆1 《自己愛》性人格障害者集団を、超えて◆◆◆◆◆◆◆◆◆

昨日、やなぎみわ の東京都写真美術館での『マイ・グランドマザー』
というシリーズの展覧会を見て来ました。

実は、以前に美術手帖の『日本アーティスト序論』で取り上げられてい
る20人くらいの作家を、このブログで、端から全部芸術分析をしよう
という、壮大(笑)な企画をたてたのですが、
この やなぎみわ の前で止まってしまっていました。

やなぎみわが今年のベネチアビエンナーレの日本の代表になっている事
もあります。今、一番評価されている作家にも関わらず、
私自身が、やなぎみわに対しては批判的であったからであります。

だいたい、私の評価しない作家は、日本の現代美術界では評価が高く、
私の良いと思う作家は、評価されないのです。
それは、芸術そのものの評価軸が違うからでしょう。


そういうこともあって、
やなぎみわに、
批判的であったからこそ、学問として、
そして批評としてフェアに書きたいと言う思いがあって、
この写真美術館での展示を見てからと、思っていたのです。

他の作家を批判するのが、その作家をおとしめたり、
足を引っ張るためにやっているのではないのです。

なぜに、他の作家を見るのか?
他者を見る中でしか、現実を見る事が出来ないからです。
現実どころか、自分自身を見る事も、語ることも、
出来ないからです。

それと、現在の批評の不在を、
自分なりに切り開きたいからです。
私自身は、批評を読むのが好きです。
スーザン・ソンタッグや、ロザリンド・クラウスといった
女性の書き手が好きでした。

つまりラカンの鏡像理論が示したように、
自分自身の顔が直接には見られなくて、
鏡に写すとか、写真で見る以外にないのに対して、
他人の顔や、姿は鮮明に見えます。

作品も実は同様で、自分では自分の作品を捉えるのが、
むずかしいからこそ、他人の作品を透して、
芸術について考えるのが重要なのです。

そして批評という視点や芸術分析という方法で芸術を見る事が、
芸術を理解するのに有効であると考えるからです。
芸術というのは、あくまでも実際の作品を通して
出現するものだからです。

ところが、日本の美術界では、
「他人の作品を見るとマネをすることになるから、
見ない事にする」という、変な風潮が作家の中に蔓延しています。

こういう主張は、何人もの作家が、異口同音に言います。
批評家でも、某氏は、「俺は自分の頭で考えるから、他の奴の文章は
読まない」と公言していました。

そのくせ面白い事は、そういう事を言う作家や、批評家は、
自分の作品は見に来て欲しい、読んで欲しいというのです。

これは間違いです。
理論矛盾でもあります。
つまり、「他人の作品は見ない。他人の文章は読まない」というのは、
《自己愛》性人格障害者特有の迷信なのです。

マネをするという模倣マシーンになってしまうのは、
《想像界》の人格しか無い、
子供の人格の弱さなのです。

人格を《象徴界》《現実界》まで分化させて、
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な作家主体を
持って、総合力をつければ、
簡単な形では、他人を真似する事にはなりません。

自分の人格を成長させる事は、
作家として大きくなるためには、
人格を発展させることは、重要な事なのです。

ところが、現在の日本のアーティストは、
未熟で子供である事が、すぐれたアーティストになることだと、
錯誤しているのです。

それは岡本太郎からの悪しき伝統です。
しかし岡本太郎は、人類史の中で見れば、
まったく愚劣な作家に過ぎないのです。
岡本太郎は【B級美術家】です。
岡本太郎よりもすぐれたアーティストは、
いくらでもいるのです。


他の領域を見れば、他人の仕事を良く見ています。
建築の人々は、他の建築家が作った建築を実際に見るために、
良く見て歩きます。
建築ツアーを企画するのです。
私も参加しています。
他人の建築を、たいへんに厳しい眼で見て、批評をしています。

将棋とか碁の棋士たちも、他人の戦いを良く見て、勉強しています。
新しい手は、日々生み出されているので、他人の戦いを見なければ、
自分が実際の戦いで接した時に、対応を取るのが遅れてしまうからです。

戦争もそうであって、たとえば湾岸戦争や、イラクの戦争を、
アメリカ軍がやれば、各国の軍事専門家は、戦地に行って、
見学するのです。武器の威力や、戦闘のやり方を研究して、
自分の実際の軍事力の実力や、整備の方向を考えるのです。

他の国の軍備や戦争の仕方を良く見ておかなければ、
いざ、戦争となった時に、負けてしまうからです。
彼を知り、己を知れば、百戦百勝」と、孫子の兵法にあるように、
他者を知る事こそが、己を知る事になるという基本があって、
こういう基本を欠いている《自己愛》性人格障害者は、
戦争には負けるのです。

詩人も他の人の詩を、良く読んでいます。
たとえば建畠哲氏は、美術評論家や国立国際美術館の館長である
だけでなくて、詩人でもありますが、
彼は良く、他の詩人の詩集を読んでいて、詩人を批評する力は、
大変にある方で、私は詩人として尊敬しています。

美術家自身も、他人の作品を一生懸命に見に行って来た、
歴史があります。
例えば、アメリカを代表する彫刻家のデヴィッドスミスは、
同時代の作家を良く見ています。
レオナルド・ダ・ヴィンチにしても、
最後の晩餐は、多くの先人の作品を見た上で、描いていると思われます。

先人の美術を多く見て、
その検討を通して、
美術や芸術について考えて行く事は重要なのです。

◆◆2  B級エンターテイメントの作品◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

yanagi_redhead_gmother.jpg
《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント

《想像界》の作品、固体美術。

実体的美術(エンターテイメント)

《気晴らしアート》《ローアート》
シニフィエ(記号内容)の美術。

《原始平面》『ペンキ絵』【B級美術】


この写真は、写っているモデルが本当に怖いのが分かる
楽しい写真で、運転している運転手の面白がっている軽薄な表情も、
リアルです。

しかし、それ以上の面白みはありません。
確かに、やなぎみわが言うように、作品になっていると思いますが、
すぐれた【A級美術作品】になっていないのです。
【B級美術】です。
一級の芸術作品としての、面白みが、凝視していても、
見えてこないのです。

この『マイ・グランドマザー』というシリーズは、
モデルの若い女性が、自分の理想の未来の老人になった時の設定と、
ストーリーをつくって、それをバーチャルに再現しているという、
作品らしいのです。

ですから、歳をとって、オートバイに乗って走るという、
夢を、このモデルの女性は持っているのでしょうが、
そういう設定は分かりますが、
そうしした老いにたっしていく意味が、見えて来ません。

このモデルが、オートバイに乗り続けて歳を取っていたとすれば、
このような、ジェットコースターに乗ったような、恐怖に満ちた顔は、
しないでしょう。

設定そのもののなかに、時を経て、老いて行く事の人生の重みや、
空しさや、そして成熟が、無いのです。

あるのは、ジェットコースターに乗る様な遊園地的な《気晴らし》の
面白さです。


女性と言うか、老婆の部分が明るくなっています。
照明を当てている可能性もありますが、
走っているものですから、カメラの角度から考えて、
車体に取り付けたカメラからの撮影だろうと思います。
したがって、老婆が明るいのは、後からの操作だろうと、
かってにですが、推測します。

それを昔のアナログ写真では「おおい焼き」といいましたが、
現在はコンピューターのPhotoshopで、
デジタル的に調整が出来ます。

yanagi_redhead_gmother2.jpg
その構造を分かりやすくするために、
Photoshopで、明度を落とし、コントラストを強く加工したものを、
お見せします。

やなぎみわの作品は、主題である演じられた老婆を明るくして、
目立つようにした、分かりやすく加工されている写真であることが、
分かります。
こういう やなぎみわ の作品の作り方をすると、
作品は実体化し、説明的なものに、退落してしいます。

空間も、《原始平面》化して、真性の深いイリュージョンが生まれて
こなくなります。《第6次元》化して、《6流》の美術になって
しまうのです。

やなぎみわ の作品は、説明的なものなのです。
しかし芸術作品においては、説明的な作品は【B級美術】なのです。

そして、実体的です。
すぐれた作品は《非-実体性》のあるものであって、
実体的な作品は、ラスベガスのショーにでてくるような
エンターテイメントなのです。

ですから、やなぎみわ のさくひんは、これはすぐれた芸術作品という
ものではなくて、娯楽映画に見られるエンターテイメント作品の構造
なのです。


やなぎみわ の作品は、大型写真で、たぶんですが、ラムダプリントでの
出力らしく、きれいではあります。
そしてモデルと良く相談しながら、老婆に扮しさして、さまざまな設定
の物語の中で、写真が、大掛かりにフィクショナブルに作られています。

それは娯楽だけのためのB級映画のスチール写真のようなものに見えます。

Mika_MG_web.jpg
《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント

《想像界》の作品、固体美術。

実体的美術(エンターテイメント)

《気晴らしアート》《ローアート》
シニフィエ(記号内容)の美術。

《原始平面》『ペンキ絵』【B級美術】

やなぎみわの作品が持つ、通俗性と娯楽性と、説明性は
昔の東宝映画の雰囲気です。

なにか、ピーナッツが出てくる『モスラ』の南海の島のようです。
そこに、巫女の女性がいて、南海の楽園を支配している。

向こうに見える奇妙な岩は、ゴジラの出現のようにも見えます。

10000784.jpg
b0007491_21581054.jpg

tll-2464.jpg

この映画には、かわいらしいザピーナッツが出て来て、
歌を歌ったのです。

ピーナッツのレコードを私が買ったのは、
小学生高学年だったと思うのですが、
それが次のアルバムです。

images.jpeg

そしてピーナッツも歳を取って行きます。
pea-2.jpg
ejs-6112.jpg
88h-1006.jpg

そして、引退して、
老いた姿は、見せてくれません。
ネットで探しても、見つかりませんでした。

老いというのは、そうしたものです。

Mika_MG_web.jpg
先ほどと、同じ様に、明度を落として、コンストラストを上げると、
このように、中心の人物だけが浮かび上がる構造をしています。

こういう実体的な構造の写真が、芸術作品として面白いのでしょうか?

娯楽的で「面白いでしょう」と言っている作品ではありますが、
別に、ハリウッドの大規模な映画と比較してみれば、
特にどうというものではないのです。

waterworld.jpg
Waterworld-1.jpg
waterworld-2.jpg
私は、ケビンコスナー主演の『ウオーターワールド』を劇場に見に行って
います。1995年の作品です。

やなぎみわのデビューが1993年ですので、同時代の映画であったのです。

『ウオーターワールド』は、たいへんに大掛かりでしたが、つまらない
映画で、「海のマッドマックス」と言われます。

同じ様な事は、やなぎみわにも、言えるのかもしれません。
たいへんに大掛かりではありますが、つまらない写真作品で、
「日本のシンディー・シャーマン」という評価です。
【続きは下記をクリックして下さい】

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やなぎみわ [日本アーティスト序論]


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◆◆1 《自己愛》性人格障害者集団を、超えて◆◆◆◆◆◆◆◆◆

昨日、やなぎみわ の東京都写真美術館での『マイ・グランドマザー』
というシリーズの展覧会を見て来ました。

実は、以前に美術手帖の『日本アーティスト序論』で取り上げられてい
る20人くらいの作家を、このブログで、端から全部芸術分析をしよう
という、壮大(笑)な企画をたてたのですが、
この やなぎみわ の前で止まってしまっていました。

やなぎみわが今年のベネチアビエンナーレの日本の代表になっている事
もあります。今、一番評価されている作家にも関わらず、
私自身が、やなぎみわに対しては批判的であったからであります。

だいたい、私の評価しない作家は、日本の現代美術界では評価が高く、
私の良いと思う作家は、評価されないのです。
それは、芸術そのものの評価軸が違うからでしょう。


そういうこともあって、
やなぎみわに、
批判的であったからこそ、学問として、
そして批評としてフェアに書きたいと言う思いがあって、
この写真美術館での展示を見てからと、思っていたのです。

他の作家を批判するのが、その作家をおとしめたり、
足を引っ張るためにやっているのではないのです。

なぜに、他の作家を見るのか?
他者を見る中でしか、現実を見る事が出来ないからです。
現実どころか、自分自身を見る事も、語ることも、
出来ないからです。

それと、現在の批評の不在を、
自分なりに切り開きたいからです。
私自身は、批評を読むのが好きです。
スーザン・ソンタッグや、ロザリンド・クラウスといった
女性の書き手が好きでした。

つまりラカンの鏡像理論が示したように、
自分自身の顔が直接には見られなくて、
鏡に写すとか、写真で見る以外にないのに対して、
他人の顔や、姿は鮮明に見えます。

作品も実は同様で、自分では自分の作品を捉えるのが、
むずかしいからこそ、他人の作品を透して、
芸術について考えるのが重要なのです。

そして批評という視点や芸術分析という方法で芸術を見る事が、
芸術を理解するのに有効であると考えるからです。
芸術というのは、あくまでも実際の作品を通して
出現するものだからです。

ところが、日本の美術界では、
「他人の作品を見るとマネをすることになるから、
見ない事にする」という、変な風潮が作家の中に蔓延しています。

こういう主張は、何人もの作家が、異口同音に言います。
批評家でも、某氏は、「俺は自分の頭で考えるから、他の奴の文章は
読まない」と公言していました。

そのくせ面白い事は、そういう事を言う作家や、批評家は、
自分の作品は見に来て欲しい、読んで欲しいというのです。

これは間違いです。
理論矛盾でもあります。
つまり、「他人の作品は見ない。他人の文章は読まない」というのは、
《自己愛》性人格障害者特有の迷信なのです。

マネをするという模倣マシーンになってしまうのは、
《想像界》の人格しか無い、
子供の人格の弱さなのです。

人格を《象徴界》《現実界》まで分化させて、
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な作家主体を
持って、総合力をつければ、
簡単な形では、他人を真似する事にはなりません。

自分の人格を成長させる事は、
作家として大きくなるためには、
人格を発展させることは、重要な事なのです。

ところが、現在の日本のアーティストは、
未熟で子供である事が、すぐれたアーティストになることだと、
錯誤しているのです。

それは岡本太郎からの悪しき伝統です。
しかし岡本太郎は、人類史の中で見れば、
まったく愚劣な作家に過ぎないのです。
岡本太郎は【B級美術家】です。
岡本太郎よりもすぐれたアーティストは、
いくらでもいるのです。


他の領域を見れば、他人の仕事を良く見ています。
建築の人々は、他の建築家が作った建築を実際に見るために、
良く見て歩きます。
建築ツアーを企画するのです。
私も参加しています。
他人の建築を、たいへんに厳しい眼で見て、批評をしています。

将棋とか碁の棋士たちも、他人の戦いを良く見て、勉強しています。
新しい手は、日々生み出されているので、他人の戦いを見なければ、
自分が実際の戦いで接した時に、対応を取るのが遅れてしまうからです。

戦争もそうであって、たとえば湾岸戦争や、イラクの戦争を、
アメリカ軍がやれば、各国の軍事専門家は、戦地に行って、
見学するのです。武器の威力や、戦闘のやり方を研究して、
自分の実際の軍事力の実力や、整備の方向を考えるのです。

他の国の軍備や戦争の仕方を良く見ておかなければ、
いざ、戦争となった時に、負けてしまうからです。
彼を知り、己を知れば、百戦百勝」と、孫子の兵法にあるように、
他者を知る事こそが、己を知る事になるという基本があって、
こういう基本を欠いている《自己愛》性人格障害者は、
戦争には負けるのです。

詩人も他の人の詩を、良く読んでいます。
たとえば建畠哲氏は、美術評論家や国立国際美術館の館長である
だけでなくて、詩人でもありますが、
彼は良く、他の詩人の詩集を読んでいて、詩人を批評する力は、
大変にある方で、私は詩人として尊敬しています。

美術家自身も、他人の作品を一生懸命に見に行って来た、
歴史があります。
例えば、アメリカを代表する彫刻家のデヴィッドスミスは、
同時代の作家を良く見ています。
レオナルド・ダ・ヴィンチにしても、
最後の晩餐は、多くの先人の作品を見た上で、描いていると思われます。

先人の美術を多く見て、
その検討を通して、
美術や芸術について考えて行く事は重要なのです。

◆◆2  B級エンターテイメントの作品◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

yanagi_redhead_gmother.jpg
《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント

《想像界》の作品、固体美術。

実体的美術(エンターテイメント)

《気晴らしアート》《ローアート》
シニフィエ(記号内容)の美術。

《原始平面》『ペンキ絵』【B級美術】


この写真は、写っているモデルが本当に怖いのが分かる
楽しい写真で、運転している運転手の面白がっている軽薄な表情も、
リアルです。

しかし、それ以上の面白みはありません。
確かに、やなぎみわが言うように、作品になっていると思いますが、
すぐれた【A級美術作品】になっていないのです。
【B級美術】です。
一級の芸術作品としての、面白みが、凝視していても、
見えてこないのです。

この『マイ・グランドマザー』というシリーズは、
モデルの若い女性が、自分の理想の未来の老人になった時の設定と、
ストーリーをつくって、それをバーチャルに再現しているという、
作品らしいのです。

ですから、歳をとって、オートバイに乗って走るという、
夢を、このモデルの女性は持っているのでしょうが、
そういう設定は分かりますが、
そうしした老いにたっしていく意味が、見えて来ません。

このモデルが、オートバイに乗り続けて歳を取っていたとすれば、
このような、ジェットコースターに乗ったような、恐怖に満ちた顔は、
しないでしょう。

設定そのもののなかに、時を経て、老いて行く事の人生の重みや、
空しさや、そして成熟が、無いのです。

あるのは、ジェットコースターに乗る様な遊園地的な《気晴らし》の
面白さです。


女性と言うか、老婆の部分が明るくなっています。
照明を当てている可能性もありますが、
走っているものですから、カメラの角度から考えて、
車体に取り付けたカメラからの撮影だろうと思います。
したがって、老婆が明るいのは、後からの操作だろうと、
かってにですが、推測します。

それを昔のアナログ写真では「おおい焼き」といいましたが、
現在はコンピューターのPhotoshopで、
デジタル的に調整が出来ます。

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その構造を分かりやすくするために、
Photoshopで、明度を落とし、コントラストを強く加工したものを、
お見せします。

やなぎみわの作品は、主題である演じられた老婆を明るくして、
目立つようにした、分かりやすく加工されている写真であることが、
分かります。
こういう やなぎみわ の作品の作り方をすると、
作品は実体化し、説明的なものに、退落してしいます。

空間も、《原始平面》化して、真性の深いイリュージョンが生まれて
こなくなります。《第6次元》化して、《6流》の美術になって
しまうのです。

やなぎみわ の作品は、説明的なものなのです。
しかし芸術作品においては、説明的な作品は【B級美術】なのです。

そして、実体的です。
すぐれた作品は《非-実体性》のあるものであって、
実体的な作品は、ラスベガスのショーにでてくるような
エンターテイメントなのです。

ですから、やなぎみわ のさくひんは、これはすぐれた芸術作品という
ものではなくて、娯楽映画に見られるエンターテイメント作品の構造
なのです。


やなぎみわ の作品は、大型写真で、たぶんですが、ラムダプリントでの
出力らしく、きれいではあります。
そしてモデルと良く相談しながら、老婆に扮しさして、さまざまな設定
の物語の中で、写真が、大掛かりにフィクショナブルに作られています。

それは娯楽だけのためのB級映画のスチール写真のようなものに見えます。

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《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント

《想像界》の作品、固体美術。

実体的美術(エンターテイメント)

《気晴らしアート》《ローアート》
シニフィエ(記号内容)の美術。

《原始平面》『ペンキ絵』【B級美術】

やなぎみわの作品が持つ、通俗性と娯楽性と、説明性は
昔の東宝映画の雰囲気です。

なにか、ピーナッツが出てくる『モスラ』の南海の島のようです。
そこに、巫女の女性がいて、南海の楽園を支配している。

向こうに見える奇妙な岩は、ゴジラの出現のようにも見えます。

10000784.jpg
b0007491_21581054.jpg

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この映画には、かわいらしいザピーナッツが出て来て、
歌を歌ったのです。

ピーナッツのレコードを私が買ったのは、
小学生高学年だったと思うのですが、
それが次のアルバムです。

images.jpeg

そしてピーナッツも歳を取って行きます。
pea-2.jpg
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そして、引退して、
老いた姿は、見せてくれません。
ネットで探しても、見つかりませんでした。

老いというのは、そうしたものです。

Mika_MG_web.jpg
先ほどと、同じ様に、明度を落として、コンストラストを上げると、
このように、中心の人物だけが浮かび上がる構造をしています。

こういう実体的な構造の写真が、芸術作品として面白いのでしょうか?

娯楽的で「面白いでしょう」と言っている作品ではありますが、
別に、ハリウッドの大規模な映画と比較してみれば、
特にどうというものではないのです。

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私は、ケビンコスナー主演の『ウオーターワールド』を劇場に見に行って
います。1995年の作品です。

やなぎみわのデビューが1993年ですので、同時代の映画であったのです。

『ウオーターワールド』は、たいへんに大掛かりでしたが、つまらない
映画で、「海のマッドマックス」と言われます。

同じ様な事は、やなぎみわにも、言えるのかもしれません。
たいへんに大掛かりではありますが、つまらない写真作品で、
「日本のシンディー・シャーマン」という評価です。
【続きは下記をクリックして下さい】

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やなぎみわ [日本アーティスト序論]


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◆◆1◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

昨日、やなぎみわ の東京都写真美術館での展覧会を見て来ました。

以前に美術手帖の『日本アーティスト序論』で取り上げられている、
作家を、端から順番に取り上げようとして、
この やなぎみわ の前で止まってしまっていました。

やなぎみわ が今年のベネチアビエンナーレの
日本の代表になっている事もありますが、
私自身が、やなぎみわ に対しては批判的であったからであります。

批判的であったからこそ、フェアに書きたいと言う思いがあって、
この写真美術館での展示を見てからと思ったのです。

他の作家を批判するのが、その作家をおとしめたり、
足を引っ張るためにやっているのではないのです。

他者を見る中でしか、現実を見る事が出来ないからです。
それと、現在の批評の不在を、
自分なりに切り開きたいからです。
私自身は、批評を読むのが好きです。
スーザン・ソンタッグや、ロザリンド・クラウスといった
女性の書き手が好きでした。

つまり自分自身の顔が直接には見られなくて、
鏡に写すとか、写真で見る以外にないのに対して、
他人の顔や、姿は鮮明に見えます。
作品も実は同様で、自分では自分の作品を捉えるのが、
むずかしいからこそ、他人の作品を透して、
芸術について考えるのが重要なのです。

そして批評という視点や芸術分析という方法で芸術を見る事が、
芸術を理解するのに有効であると考えるからです。
芸術というのは、あくまでも実際の作品を通して
出現するものだからです。

ところが、日本の美術界では、
他人の作品を見るとマネをすることになるから、
見ない事にするという、変な風潮が作家の中に蔓延しています。
これは間違いです。
迷信なのです。

マネをするという模倣マシーンになってしまうのは、
《想像界》の人格しか無い、
子供の人格の弱さなのです。

人格を《象徴界》《現実界》まで分化させて、
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な作家主体を
持って、総合力をつければ、
簡単な形では、他人を真似する事にはなりません。

自分の人格を成長させる事は、
作家として大きくなるためには重要な事なのです。
ところが、現在の日本のアーティストは、
未熟で子供である事が、すぐれたアーティストになることだと、
錯誤しているのです。
それは岡本太郎からの悪しき伝統です。
しかし岡本太郎は、人類史の中で見れば、
愚劣な作家に過ぎないのです。
岡本太郎よりもすぐれたアーティストは、
いくらでもいるのです。
岡本太郎は【B級美術家】です。

他の領域を見れば、他人の仕事を良く見ています。
建築の人々は、他の建築家が作った建築を実際に見るために、
良く見て歩きます。
建築ツアーを企画するのです。
私も参加しています。
他人の建築を、たいへんに厳しい眼で見て、批評をしています。

将棋とか碁の棋士たちも、他人の戦いを良く見て、勉強しています。
新しい手は、日々生み出されているので、他人の戦いを見なければ、
自分が実際の戦いで接した時に、対応を取るのが遅れてしまうからです。

戦争もそうであって、たとえば湾岸戦争や、イラクの戦争を、
アメリカ軍がやれば、各国の軍事専門家は、戦地に行って、
見学するのです。武器の威力や、戦闘のやり方を研究して、
自分の実際の軍事力の実力や、整備の方向を考えるのです。

詩人も他の人の詩を、良く読んでいます。
たとえば建畠哲氏は、美術評論家や国立国際美術館の館長である
だけでなくて、詩人でもありますが、
彼は良く、他の詩人の詩集を読んでいて、詩人を批評する力は、
大変にある方で、私は尊敬しています。

美術家自身も、他人の作品を一生懸命に見に行って来た、
歴史があります。
例えば、アメリカを代表する彫刻家のデヴィッドスミスは、
同時代の作家を良く見ています。
レオナルド・ダ・ヴィンチにしても、
最後の晩餐は、多くの先人の作品を見た上で、描いていると思われます。

先人の美術を多く見て、
その検討を通して、
美術や芸術について考えて行く事は重要なのです。

◆◆2◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
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《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント

《想像界》の作品、固体美術。

実体的美術(エンターテイメント)

《気晴らしアート》《ローアート》
シニフィアン(記号表現)の美術。

《原始平面》『ペンキ絵』【B級美術】


この写真は、写っているやなぎみわ が本当に怖いのが分かる
楽しい写真で、運転している運転手の面白がっている軽薄な表情も、
リアルです。
しかし、それ以上の面白みはありません。

女性と言うか、老婆の部分が明るくなっています。
照明を当てている可能性もありますが、
走っているものですから、カメラの角度から考えて、
車体に取り付けたカメラからの撮影だろうと思います。影
したがって、老婆が明るいのは、後からの操作だろうと思います。

それを昔のアナログ写真では「おおい焼き」といいましたが、
現在はコンピューターのPhotoshopで、
デジタル的に調整が出来ます。

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その構造を分かりやすくするために、
明度を落とし、とコントラストを強くして加工したものを、
お見せします。

どちらにしろ、老婆を明るく、分かりやすく加工する事で、
写真は実体化し、説明的なものに、退落しています。
やなぎみわ の作品は、説明的なものなのです。


やなぎみわ の作品は、大型写真で、たぶんですが、ラムダプリントでの
出力らしく、きれいではあります。
そして老婆に扮して、さまざまな設定の物語の中で、写真が、
大掛かりにフィクショナブルに作られています。

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この作品も、子供たちの顔が、本当に気持ち悪がっているのが写っていて、
面白いものです。
老婆の扮装そのものは、ハリウッドのSFXのひとつである特殊メイクで、
ある意味で、どうにでもなるし、それが やなぎみわ の独創ではないし、
特にすぐれているものでは、ありません。
以下の画像は、特殊メイクのサンプルです。


しかしそれは《想像界》のイメージのたわむれでしかなくて、
私には、まったく面白く無いものでありました。

基本的には、扮装ものなので、シンディーシャーマンから、
大きな流行で、何人もの作家が似た様なものを作って来ているのですが、
代表は森村泰昌でしょうが、
こうした流れのものであります。

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菅木志雄の作品(改稿2,写真追加、加筆2) [日本アーティスト序論]

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こうした菅木志雄の代表作品も、今から見ると、
ものを使った単なるデザインワークであって、芸術では無いのです。


《想像界》の眼で《8流》、デザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《8流》、デザイン的エンターテイメント。
《現実界》の眼で《8流》、デザイン的エンターテイメント。

ただ、けなしていても、まずいので、
作品集を探して、初期作品をチェックしましたが、
すべて合法的、実体的で、《退化性》もありませんで、
単なる、デザイン的エンターテイメントでありました。

この作品は、角材を窓に立てかけているだけなのですが、
何故に、これで芸術になるのか?

この手の作品の先駆を遡れば、いろいろあるとは思いますが、
菅木志雄に近い所では、高松次郎です。
高松次郎の作品に、普通のパイプ製の椅子の4本の足の内の一本に、
レンガを噛ませる、作品があります。
これを作っている時期に、私は高松氏のアトリエに良く行っていたのですが、
「作品が、いくらでも出来る」と言っていました。

《8流》に落とすと、作品はいくらでも出来るのです。

普通のポップスの歌、たとえば浜崎あゆみの歌が《3流》ですよ。
それに比べても《8流》というのが、いかに低いか分かります。
《8流》まで落とせば、作品はいくらでも、作れます。

菅木志雄の作品は、そういう《8流》の魔法世界の領域を切り開く事で、
成立しているのです。

しかし《8流》でも、芸術にして欲しかった。
全くのデザインワークというのは、寂しい限りです。



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《想像界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。
《象徴界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。
《現実界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。

《8流》と《6流》は、反転関係で、ループを作っているので、
最近の作品は、《6流》になって、進歩したとは言えます。

しかし、これをもの派の代表作家の作品と言えますかね?

《6流》になったとはいえ、
菅木志雄の作品は、デザイン的エンターテイメントであって、
芸術では、ありません。
《非合法性》《非-実体性》そして《退化性》がありません。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

菅木志雄は、日本のカンディンスキーです。

カンディンスキーと言うと、抽象画を最初に描いた代表的なアーティストとして信じられていますが、実際には、作品の年号を偽造した、経歴詐称のアーティストなのです。

同じ事は、菅木志雄に言えて、彼の作品集の初期作品に関する図版は、事実に反するのです。当時の作品を見ていた人々の証言では、もっとポップな作品が発表されていたというのです。少なくとも分かっている事は、1967年にシェル美術賞展1等賞(第1席)を受賞しているのですが、これはキャンバス絵画で、しかも某作家の作品の盗作の疑惑がささやかれた作品です。その某作家からは、菅木志雄が謝罪したという話を聞いています。その事実はさておき、少なくともこのシェル賞の作品は、当時の美術雑誌にも載っているものであって、動かしがたい事実であります。それと、作品集に展開されている、もの派的な作品の、展開の関係が、明らかにされる必要があるのです。

カンディンスキーの作品は、実は優れた作品ではなくて、《6流》の装飾に過ぎなかった、という問題があります。数年前のカンディンスキー展も、見た友人が「よくない」と言っていましたが、」同様の疑いは、菅木志雄にも言えるのです。

横浜美術館や、その前の東高現代美術館 といったところでの発表は、造形屋に発注してつくった作品で、そうした時の作品のクオリティが、極度に落ちています。菅木志雄自身の手で作った作品の良さというのは、実は手芸的なものであって、この手芸性と外注作品の突き合わせから見えてくるものは、たわいもない、レベルの低い造形的な遊戯性ではないのか?
 
菅木志雄は、今井俊満であると言う問題があります。
今井俊満という作家の作品展開は、アンフォルメル
からはじまって、花鳥風月になりますが、この場合、最初のアンフォルメルが、今井が、半年か1年遅れて、アンフォルメルの運動を模倣したのではないか? という疑惑を持たせるからです。ああいう作品展開というのは、オリジナルを作り出すタイプのアーティストではないからです。そして同じ様に、菅木志雄の作品展開も、何か、奇妙なものを感じるのは、私だけでしょうか?

つまり関根伸夫を中心とするオリジナルもの派に対して、菅木志雄は、明らかに半年以上の遅れがあって、後からもの派をコピーしていった第2次もの派であるのです。つまりもの派の模倣者であり、模倣する事で、もの派を横取りしたのではないのか?という疑惑を、私は感じるのです。つまり今日では、まるで、もの派の代表の様に言われる菅木志雄というアーティストは、オリジナルのもの派ではなくて、もの派の模倣者だったという事実を重視したいのです。

かねこアートだったと思いますが、最初に出た作品集では、作品題名が変更されているものが多くて、これも研究者の地道な参照活動が必要です。それと作品集を見た時に感じる、支離滅裂さが、何故であるのかが、論じられる必要があります。私が藤井博論を書いた時の取材の印象では、菅木志雄が、もの派系の非有名な作家のものを参照して、コピーしていると言う感じでした。これは単なる印象なのですが、そうしたもの派の作家相互の模倣関係も、論じられる必要があります。


菅木志雄0.jpg

菅木志雄の顔です。

《想像界》の眼で、《6流》。
《象徴界》の眼で、《8流》。
《現実界》の眼で、《8流》。

《想像界》の人格。
固体人間。

固体という前近代性の人物です。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

この1960年代末の作家たちが、《現実界》に美術を還元して行くのですが、
その代表はリチャード・セラです。
溶けた鉛を、柄杓で投げる1969年の作品は、その象徴的なものです。

セラ2.jpg
セラ1.jpg
セラ3.jpg

このセラの作品展開と比較する時、菅木志雄の作品が、
《現実界》への還元であったとするのには、
少し無理があるのです。

菅木志雄10.jpg

セラの作品展開は凄いので、
比較するのはかわいそうではありますが、
しかし、菅木志雄の作品は《現実界》への還元ではないのではないのです。

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セラ.jpg
セラ20.jpg

《想像界》の眼で、《超1流》、真性の芸術。
《象徴界》の眼で、《超1流》から《7流》の重層表現、真性の芸術。
《現実界》の眼で、《超1流》、真性の芸術。

気体美術。
シニフィアンの美術。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

日本の、もの派全体に言える事ですが、
《現実界》に還元していない作家が、多くいるのです。
たとえば油土を使った関根伸夫ですが、
油土の中に、上げ底の箱が入っていた事実は、
作品が、実は見てくれを装った《想像界》の作品である事を示しています。

菅木志雄の初期作品は、《想像界》の作品であって、
ものを使った、デザインワークであるのです。
《現実界》の作品ではないのです。

しかし、多くの人は、菅木志雄の作品を、《現実界》の作品と錯覚しているのです。
何故に、錯覚が起きるのか?
【ユング的集合無意識】で見ると、
《現実界》の作品に見えるからです。

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《想像界》の眼で、《6流》、デザイン的エンターテイメント。
《象徴界》の眼で、《6流》、デザイン的エンターテイメント。
《現実界》の眼で、《6流》、デザイン的エンターテイメント。

固体美術(前近代美術)
シニフィアンの美術。

一応、作品集をチェックしましたが、
どこにも芸術作品はありませんでした。
普通は初期には良い作品があるものなのです。

菅木志雄の隠されている、ポップな初期作品を見て、
チェックしてみたいものです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ルーズな、作り方というもの、
バラックの様な作り方に、
日本人は、喜びを感じるのかもしれません。

芸術といっても、こんなもので良いのだというのは、
開放感があるのでしょう。

日本人は、異様にまで、芸術に対して、
構えると言うか、
緊張感を持ちます。

芸術というのと、
エンターテイメントというのは、
背中合わせですから、
そういう意味では、
ネガティブなエンターテイメントとも言うべきものであって、
緊張を強いられるものではないのです。

菅木志雄の脱力系の作品というのは、
これが、もしも本当の芸術であれば、
極めて日本的なものとして、
千利休に匹敵するアーティストになり得たでしょう。
しかし残念ながら、そういう高度な精神性はなくて、
単なるものを使ったデザインワークであったのです。











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奈良美智の作品 [日本アーティスト序論]

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《想像界》の眼で《6流》、デザインエンターテイメント
《象徴界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。
《現実界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。
気体美術、つまり現代アートです。
シニフィエの美術(=脳内リアリティの作品)で、新しかったと言えます。

奈良美智の作品の中に、全く芸術性がゼロであるかと言うと、
それは、そうも言えないのであって、《想像界》の眼で見た時の《非-合法性》があるので、
この要素で、芸術であるとする、見方の立場はあり得ると、思います。

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《想像界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。
《象徴界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。
《現実界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。
気体美術(=現代アート)。
シニフィエの美術。

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《想像界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。
《象徴界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。
《現実界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。
気体美術。
シニフィエの美術。

こういう奈良美智/GRAFの人形は、
《想像界》でも、まったく合法的であって、
完全にデザインワークであって、これは芸術ではありません。

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奈良美智の顔です。


《想像界》の眼で《6流》。
《象徴界》の眼で《6流》。
《現実界》の眼で《6流》。
気体人間です。
《想像界》の人格の人です。

昔の横浜美術館の奈良美智展は見に行っていますが、
私自身は、奈良さんに対する評価はありません.
言い換えれば【フロイト・ラカン的位相からの芸術分析】という視点で見ると、
奈良美智さんの作品は、まったく芸術ではなくて、
凡庸なものにすぎないのです。

例えばレオナルドダヴィンチのモナリザと比較して、
奈良美智は、あまりにも落ちるのです。

レオナルドダヴィンチのモナリザと、
たとえばポロックの最良の絵画を比較した時には、
ポロックが落ちるとは言えないのです。
ゆうにレオナルドダヴィンチとポロックは、
芸術分析的には拮抗しうるのです。

奈良美智は、ポロックと比較しても、
芸術分析的には、格段に落ちるのです。

奈良美智を、宗達と比較すると、落ちます。
奈良美智を、光琳と比較しても、落ちます。
奈良美智を、酒井 抱一と比較すると、同じく《6流》ですので、
比較にはなりますが、抱一の方が上です。

鈴木其一比較すると、ほぼ同じです。
彦坂尚嘉の私観では、そのレベルの作家として
奈良美智は存在するのです。

奈良美智を初期に買い集めて、大もうけして、
奈良御殿といわれる建築まで建てたディーラーとも、
たまたま知り合って
一緒に飲んでいます。
そのディーラーは、面白い人物と思いました。

美術市場というもののメカニズムのカオス性は、
芸術論とは連動していません。
むしろ素人の評価に近い面がありますが、
しかし市場は、気象に良く似た複雑なメカニズムで動いているので、
単純化はできません。

奈良さんの存在を無視できるとは思いませんが、
芸術的に問題にするとすれば、
それは文化の持つ、もう一つの面と言えます。

それは、《時代の表現》と言う面です。
奈良さんが描き出した、
ナイフを持った、悪意を込めた眼で見つめる少年というのは、
この時代の【ユング的集合無意識】を表象するすぐれたイコンでありました。

つまり【ユング的集合無意識】で見ると、
奈良美智の作品は、《1流》に見えるのです。

それとシニフィエ、これを彦坂流に言えば脳内リアリティ的に
表出したことで、
奈良美智の作品は、傑出していたのです。

【ユング的集合無意識】では、・・・・・・・・・《1流》。
【フロイト・ラカン的位相からの芸術分析】では、《6流》。

こういう2重性で、奈良美智を捉えたいと思います。






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タグ:奈良美智 GRAF
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池田光弘の作品(加筆2) [日本アーティスト序論]

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《想像界》の眼で《1流》、真性の芸術
《象徴界》の眼で《1流》、真性の芸術。
《現実界》の眼で《1流》、真性の芸術。

芸術分析的には、《1流》の真性の芸術であって、
満点です。
これは評価できます。

ただ、絵画構造的には液体美術であって、
つまり、言い換えれば近代美術であって、
一つ前の絵画であって、古いのです。

無いものねだりで申し訳ありませんが、
もう一つ新しい構造の絵画が、欲しいのです。

私見で言えば、液体の時代は終わって、
気体化した時代になっているので、
そうした絵画構造の作品を見たいのです。

これはシニフィアンの美術です。
これも古い要素の一つであります。

それと、私の選んだ作品はましなのですが、
他のものは、《大空間》が描けていなくて、息苦しく感じます。

押井守の映画の良さの一つは、《大空間》を描いている事ですが、
すぐれた絵画というものは、《大空間》を描く所にあると思います。
それが池田光弘の絵画には欠けている。

文句ばかり言って恐縮ですが、
芸術の要素というのは、8個以上あって、
むずかしいというか、たいへんなのですね。
特に絵画は、すでに優れている作品が沢山作られて来ているので、
評価する、水準が高いのです。

頑張って、成長してください。


タグ:池田光弘
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榎忠の作品 [日本アーティスト序論]


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《想像界》の眼で、《8流》、真性の芸術。
《象徴界》の眼で、《超1流》、真性の芸術。
《現実界》の眼で、《超1流》、真性の芸術。

物質性を持ったシニフィアンの芸術です。
液体美術ですっから、つまり近代美術というものです。
そういう意味で、ひと昔前の、古い芸術であると言うべきでは、
あります。

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《想像界》の眼で、《8流》、デザインエンターテイメント
《象徴界》の眼で、《8流》、デザイン的エンターテイメント。
《現実界》の眼で、《8流》、デザイン的エンターテイメント。

この作品は、面白いですが、芸術ではありません。
液体美術です。
シニフィアンの表現です。

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榎忠の顔です。

《想像界》の眼で、《1流》
《象徴界》の眼で、《1流》
《現実界》の眼で、《1流》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界を持つ人格。
なかなか、たいした人物であります。

液体人間、つまり近代人であられる。


榎忠
1944年香川県生まれ。

60年代後半から関西を中心に活動。
70年代にグループZERO(後にJAPAN KOBE ZEROと改名)を結成し、
集団でパフォ-マンスを行う。
76年脱退後、ボディアートや大砲、銃、ダイオキシンなどを
テーマにした鋼鉄のオブジェの制作で話題を呼ぶ。
おもな展覧会は2006年「その男、榎忠」(KPOキリンプラザ大阪、大阪)など多数。
神戸市在住。 


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大砲や、銃の作品です。
銃を作品にしたのは、アルテポーベラに誰かいたという記憶があって、
探したのですが、確認できませんでした。

榎忠さんの作品や、パフォーマンスは、面白い事は、面白いです。

《想像界》の眼で《8流》、デザイン的エンターテイメント作品。
《象徴界》の眼で《8流》、デザイン的エンターテイメント作品。
《現実界》の眼で《8流》、デザイン的エンターテイメント作品。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
芸術というのは、私性が刻印されていて、
そして《非-実体性》《非-合法性》《退化性》などのあるものと、
彦坂尚嘉は考えます。

デザイン的エンターテイメントと、芸術は、
ちょうど裏表の様な関係にあります。
どちらも他者を魅了する技術という意味では、
同じです。

岡崎乾二郎は、
「芸術は人間に魂を自覚させる方法なんだょ」と定義していますが、
このような定義では、宗教や哲学も、芸術と化してしまいます。
しかし創価学会やエホバの証人といった新興宗教は、
芸術ではありません。

そうではなくて、
芸術とエンターテイメントは、
他人を魅了し、引きつける銅貨の両面です。
正確に言えば、両者とも、
パスカルの言う「きばらし」にすぎません。

それでも芸術は、消費されずに時を超える力があります。
その理由を分かりやすく言えば、
デザイン的エンターテイメントを抑制したものが、
芸術だからです。

榎忠の銃や大砲の作品には、
芸術固有の抑制性がありません。






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小谷元彦の作品(加筆3) [日本アーティスト序論]

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はじめに

 厳密な意味で作家であるので、私は評論家になりたいと思って来たのではないのです。したがって日本の美術批評が滅びてしまった事をなげく事も無いのであります。

 しかし、にもかかわらず私は、膨大に文章を書いて来たのですが、その本当の理由はさておいて、他人のせいにするとすれば、私の時代と世代の美術評論家がだらしなかったからです。一番は峯村敏明、谷新、千葉茂夫諸氏であって、彼らは、私の望む《厳密な学問としての美術批評》を書いてくれなかったのです。

 その中で、唯一の例外は藤枝晃雄氏でした。私の文章は、藤枝批評の作品論を学び、そして継承しつつ展開したものです。

 拙著『彦坂尚嘉のエクリチュール』の椹木野衣批判の文章は、古い美術評論家には書く事も、そしてある意味で読む事も出来ない、新しい地平を切り開いていると自負しています。ぜひ、興味のある方は読んでいただければと思います。決定的な新しさがあるのです。そして読みやすいものであります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 とにかく新しい美術が始まって20年も過ぎようとしている今日、新しい批評は必要であると思っています。

 時代は大きく変わって、昔の工業化社会の物質文明は終わり、今日の情報化社会の情報文明になりました。芸術も物質性を持ったシニフィアンを重視した時代がおわって、脳内リアリティであるシニフィエを重視した作品に代わって来ています。

 こうした変化を明快に切り分けて行く批評理論は、私のもの以外に、あるのでしょうか?

 さらに芸術とエンターテイメントの関係も複雑になって来ているのですから、これも明晰に指摘して行く必要があるのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 私は、新しい作品測定の技術として、「アートの格付け」をはじめとする批評技術を開拓して来たのです。

 それは主観批評の、技術革新であると、自負しています。

 比喩で言えば、昔は体重計も簡単で1キロ単位で目盛りがふってある程度ものでしたが、今は100グラムくらいに細かくなり、さらに体脂肪率、基礎代謝量、体水分量、筋肉量、測定骨量等々を測定できすようになっています。

 美術批評もまた、詳細な分析技術を開拓する必要があったのです。そこでラカン理論を背景とした精神分析ならぬ、芸術分析を展開して来ているのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 さて、今日のブログというのは、2004年に始まって、従来のマスコミとは違ったメディアとして、批評活動をなしうる媒体であると言えます。

 何よりも独りで、お金もかけずに、フリーメディアとして発信する事が出来ます。私のブログでヒットした記事は3000人もの人が読んでくれていますし、毎日延べで、多い時には1800に達するヒット数を得ているのです。合計のヒット数は25万件を超えているのです。

 読んでくださっている方々に深く感謝をするとともに、美術批評の革新の地平を切り開く、小さな試みを、新たにしておきたいと思います。

 すでに、鴻池朋子、加藤泉と開始しているのですが、『美術手帖』の2008年7月号の特集『日本のアーティスト序論』で取り上げられている30人の作家を、格付けしようとする試みです。今日は小谷元彦です。

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小谷元彦の作品/特集『日本のアーティスト序論』3

 東京芸術大学の彫刻家出身でありながら、写真、映像、インスタレーションなどメディアを選ばない作品を約10年発表してきた小谷元彦は、2006年、東京藝術大学先端芸術表現科の准教授になって、気のせいか、憂鬱な顔をしている。もっとも今の若い人は、こういうふてくされた様な暗い顔で写真を撮られるのが流行りという事なので、そういう流行顔なのだろうが。



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小谷元彦
1972年京都生まれ。

《想像界》の眼で《1流》
《象徴界》の眼で《8流》
《現実界》の眼で《超1流》

人格的には《現実界》と《想像界》の人。


《現実界》が《超1流》であると言う事は、
尋常なことではなくて、
実は単なる才能ですまされるものではないのです。
そこには原因となる何かがあるのです。

京都生まれというのも、その一つの原因ではあります。
京都は圧倒的に文化水準が高いのです。
しかし、それだけでは《1流》止まりの話であって、
《現実界》で《超1流》にはなり得ません。


《現実界》が《超1流》のキャラクターであるから、
それぞれの作品の完成度が高かったのですが、
実態のつかみづらいアーティストとしてあり続けてきました。

このつかみづらい小谷元彦の闇にこそ、
実は、本質が横たわっているのです。
その本質がシニフィエです。
脳内リアリティの露呈化が、表現として出現しています。
それもエンターテイメントとして、
見せ物化しているのです。

欠陥は、小谷元彦の《象徴界》性が弱い事です。
たぶん、難しい本を読まない子供であったのでしょう。

そのことが、小谷元彦の闇をさらに深くしています。

同時に、それは、芸術とエンターテイメントの区別が、
つかないで来た、悲劇と不毛性に結果しているのです。

そのために、この10年間の活動の意味が見えず、
憂鬱になっているのではないでしょうか?

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

私が、初めて見た作品は、
1999年11月20日(土)~2000年1月23日(日)に
水戸芸術館で、椹木野衣が開いた『日本ゼロ年』に出品された作品でありました。

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女性の彫刻(エア・ガスト、1999年の後ろに立っている木彫は、
記憶では、水が落ちている滝を彫ったものであったと思います
(エア・フォール、1999年)。
緻密な彫刻技術が、目立っている木彫であって、
私の記憶に残りました。

《想像界》の眼で《1流》
《象徴界》の眼で《8流》
《現実界》の眼で《超1流》

この作品は《シリアス・アート》で、
そして《ハイアート》でありました。

何故に裸婦彫刻と、水の落ちる滝の彫刻なのでしょうか?

滝の彫刻とは、何なのでしょうか?
年号的には前後してしまいますが、
1997年の東京恵比寿にあったP-HOUSEでの
第1回個展《Phantom-Limb》で展示されていた
白鳥の作品に対応しているのではないでしょうか?

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壁に激突した瞬間の白鳥の姿です。
白鳥の両眼は見開かれたままで、
白鳥は、この衝突によって出現した、
ジャック・ラカンが言うところの《現実界》を知覚していないことを表しています。

つまり滝=白鳥とは、【流れ/衝突/死】であり、
《現実界》の出現を意味しているのです。

滝という水の流れは、
これも時間の順序が逆になってしまいますが、
他には、オオカミの毛皮(『ヒューマン・レッスン(ドレス1)』1996年)になったり、
いろいろな形に姿を変えて現れてくるのです。

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水の流れる滝的作品は、その後の作品まで一貫した構造となっているのですが、
木彫では《シリアス・アート》《ハイアート》であったのに、
オオカミの毛皮や、白鳥に変貌した時には、
その作品は《気晴らしアート》そして《ローアート》に、堕落したのです。

この堕落にこそ、小谷元彦が、人気をはくした理由があります。2000年 - リヨン・ビエンナーレ、2001年 - イスタンブール・ビエンナーレ、2002年 - 光州ビエンナーレ、2003年 - ヴェネツィア・ビエンナーレでは日本代表として日本館で展示しているのです。

ひとびとは、エンターテイメントが好きですから、
《気晴らしアート》そして《ローアート》に、
熱狂したのです。

最近の骨の彫刻も、
それはこの滝の木彫が見せたものの、
《気晴らしアート》《ローアート》的なる展開に他ならないのです。

もっとも最近の骨の彫刻は、
1997年の東京恵比寿にあったP-HOUSEでの
第1回個展《Phantom-Limb》で展示されていた
『Circlet』(1997)という作品。
これはアンモナイトの螺旋形とサメの歯による混成体であったようですが、
この作品への、先祖返りの仕事であると見なすべきでしょうが、
この骨もまた、【生命の流れ/衝突/死】を象徴するものであり、
したがって《現実界》の出現のメタファーであると考えられます。

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彦坂尚嘉の私見からは、

瀧という水の流れのフォルムのバリエーションであるのです。

この部分の意味が、

実は《8流》の闇の中に封じ込められているのですが・・・。

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この女と、滝という水の流れ(《現実界》の出現)の対比の構造にこそ、

小谷元彦の闇が存在するのです。

それは、例えば、
次の写真作品の対比の構造にかいま見られるものです。

小堀10.jpg

ここにあるのは、死んだ者たちの体積としての瀧と、
生き残った者の優越性=権力としての女です。

エリアス・カネッティは、その名著『群衆と権力』の中で、
「生き残った瞬間が、権力の瞬間である」と書いています。

『…生き残る瞬間は権力の瞬間である…生き残った者が一人の死者に向かいあっていようと多数の死者に向かいあっていようと、この状況の重要な点は、かれが自分を唯一の人間だと感じていることにある…いかなる死者もすべて他者に生き残られた者である』(『群衆と権力』上巻p.333-p.388.)

それは戦場で死者たちの大地の上で、生き残った者に、
権力が発生する事を指摘したものでありました。

小谷元彦の瀧という水の流れと、女の対比の中には、
死の堆積と、生き残った者の権力の確立と言う、
残酷な闇が沈んでいるのではないでしょうか?

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加藤泉の作品(大幅改稿/読みやすく改稿1/加筆3) [日本アーティスト序論]

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加藤泉の作品の芸術分析です。
「芸術分析」という言い方は、「精神分析」という言い方を下敷きにしています。
私自身が、下敷きにしているのが、フロイト/ラカンの精神分析理論だからです。
とは言っても《超1流》から《41流》までの42段階の『アートの格付け』など、
《言語判定法》という彦坂尚嘉流の方法を使った、主観批評分析です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

《想像界》の眼で《8流》
《象徴界》の眼で《8流》
《現実界》の眼で《8流》

《8流》というのは、信仰領域です。
つまり、この加藤泉の作品を素晴らしいと信じれば、
素晴らしいということになるという、
新興宗教のような領域で、この作品は作られています。

彦坂尚嘉の『アートの格付け』では、《1流》というのは社会的理性領域ですが、
加藤泉の作品は、社会的理性領域では作られていないと言う意味です。

《2流》というのは技術領域、
《3流》というのはポップ/コミュニケーション領域です。
《4流》は不条理領域(サルトルの『嘔吐』という小説のような世界)、
《5流》は優良品領域(ちょっと良いね、という感じ)、
《6流》は自然領域、
《7流》は、ビジネス領域で、
《8流》が信仰領域です。

そういう中で、加藤泉の作品は、
《8流》の新興領域で作られているのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

作品的には
《想像界》では、デザインワークです。
《象徴界》でも、デザインワークです。
《現実界》では、真性の芸術と言えます。

彦坂尚嘉が芸術としているのは、
非実体的で、非合法的で、
《退化性》のあるものとして定義しています。




さて、そうした3界に文節化して分析すると、
加藤泉の作品は、《現実界》だけで、
真性の芸術であるという事になります。

デザインワークというのは、
正確には《デザイン的エンターテイメント》という言い方になります。
芸術と、エンターテイメントを、対でとらえる視点で、
分析していますが、
詳しくは、前のブログの山口百恵の所で書いたと思います。
分かりやすく伝える為に、この加藤泉の作品では、
デザインワークという用語に簡略化して使います。

つまり、加藤泉の作品は、
2/3は、デザインワーク出来ています。
1/3だけが芸術であって、
それも《現実界》だけで、芸術なのです。

情報化社会の芸術は、《現実界》を重視している故に、
加藤泉の《8流》作品は、
評価されていると、私は判断するのです。


01.jpg

こういう木彫立体を見ると、良くできているとは思うのですが、
独創的で、見た事のないものというものではなくて、
アフリカの黒人彫刻など、
どこかで見た事のあるものの
模倣の連鎖の中で作られているように見えます。

アフリカ彫刻と比較してみましょう。

加藤泉アフリカ.jpg
アフリカ彫刻です。

《想像界》の眼で《6流》で、工芸。
《象徴界》の眼で《6流》で、工芸。
《現実界》の眼で《6流》で、真性の芸術。

アフリカ彫刻は《6流》であるのに対して、
加藤泉は《8流》で落ちるのですが、
両方とも《現実界》で真性の芸術であるのは、
同じなのです。


伝統の中で考えると、木喰ですね。

db_wood-sculpture-4-book10.jpg

木喰の格付けです。
《想像界》の眼で《6流》で、工芸仕事。
《象徴界》の眼で《6流》で、工芸仕事。
《現実界》の眼で《6流》で、真性の芸術。

木喰は《6流》であるのに対して、
加藤泉は《8流》で落ちるのですが、
両方とも《現実界》で真性の芸術であるのは、
同じなのです。



《模倣の連鎖》の文化システムの中でつくられる芸術を、
《ローアート=民衆芸術》と呼びますが、
加藤泉の作品は、
自立した個人精神の独創で作られる《ハイアート=高級芸術》ではなくて、
民衆芸術のメカニズムのような《ローアート=民衆芸術》です。

模倣というよりも連想的に、
どうしてもゲオルクバゼリッツを思い出します。

以下3点はゲオルクバゼリッツの木彫です。

093s_sonderling300.jpg
GMA 3530.jpg
g1.jpg

ゲオルクバゼリッツの木彫の芸術分析です。

《想像界》の眼で《8流》
《象徴界》の眼で《8流》
《現実界》の眼で《超1流》

バゼリッツの場合には、
《超1流》性があるのです。
《超1流》というのは、《1流》の社会的理性領域を超えた精神性を示すものです。
そしてバゼリッツは《ハイアート=高級芸術》です。

そういう精神の超越性というものが、
バゼリッツの作品にはありますが、
加藤泉の作品にはありません。

バゼリッツの作品は、
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界で、
《非実体性》《非-合法性》《退化性》があって、真性の芸術です。

加藤泉の木彫が、《現実界》で《8流》、
そして《現実界》だけで真性の芸術、
しかし《ローアート=民衆芸術》であるのに対して、
ゲオルクバゼリッツの木彫の方が、
《超1流》性もあるし、
3界で真性の芸術ですし、
《ハイアート=高級芸術》であって、
格段に優れているのです。
加藤泉は、落ちるのです。

加藤バセリッツ.jpg

g1のコピー.jpg
《8流》                《超1流》
《想像界》でデザイン。         《想像界》で真性の芸術。
《象徴界》でデザイン。         《象徴界》で真性の芸術。
《現実界》でのみ真性の芸術       《現実界》で真性の芸術。
《ローアート=民衆芸術》        《ハイアート=高級芸術》

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
 

02-1.jpg

加藤泉の絵画の芸術分析です。

《想像界》の眼で《8流》で、デザインワーク。
《象徴界》の眼で《8流》で、デザインワーク。
《現実界》の眼で《8流》で、真性の芸術。
《ローアート=民衆芸術》


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鴻池朋子の作品(加筆1) [日本アーティスト序論]

鴻池朋子.jpg
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art0804222018007-p1.jpg

鴻池朋子
《想像界》の眼で、《8流》
《象徴界》の眼で、《8流》
《現実界》の眼で、《21流》

《8流》は、信仰世界です。
信じるものは救われる。
鴻池朋子をアートと信じる人は救われるのです。

何よりも鴻池自身が自分自身を信じているのです。
そういうことは、素晴らしいと考えるのが今の常識で、
今日のアートの一つの典型なのかもしれません。

欠点は、自分を神として信じる自己中毒教の教祖であり、
そして信者でありますから、
まあ、なんとも矮小な世界なのです。

《21流》はエロ絵画の領域。
彼女の絵の下品さは、《21流》ゆえのものです。
しかし《21流》だからこそ猥雑で、多くの人が好むのです。
多くの人は猥雑なものが好きなのです。

《21流》というのは、文明の至り着く場所で、
人間の生きて行く喜怒哀楽に、どっぷりと浸った領域です。
欠点は高さがない。
超越が無いのです。

鴻池朋子の作品は、《想像界》が主になっている作品なのです。
ファンタジーというか、童話画というか、イラストです。
それは《想像界》の持っている偶像崇拝的魑魅魍魎の世界なのです。

イメージによる鏡面地獄です。
先ほど、高さが無いと言ったのは、
この鏡面地獄を否定する契機が無いのが《21流》だからです。
迷信と、妄想と、空想と、自由解放があふれる地獄。
それもただの絵空事なのですが。
つまり自由解放という幻想そのものが、
限界をつくる自由の牢獄美術です。

鴻池の作品は、《想像界》の眼で見ても、合法的で、実体的です。
つまり《想像界》の領域でも、デザインエンターテイメントです。

もちろん《象徴界》でも、《現実界》でも芸術ではないのです。

《想像界》《象徴界》《現実界》という人間の3つの眼で、どれでも見ても、
つまり、いかなる意味でも、
鴻池の作品は芸術では、まったくないのです。

イラスト的、デザイン的エンターテイメントとして、
人々が楽しむ作品と言えます。

たのしい、良く出来た、精緻なイラストであり立体なのですから、
何にも文句は、無い事であります。

娯楽に徹した美術です。
エンターテイメント美術の女王です。

今日では、エンターテイメントであれば、
芸術の名をかぶせて、それで良しとする時代なのです。

ラスベガスのエンターテイメント・ショーは芸術であり、
ラスベガスの嘘に満ちたデコレーションが、
芸術として信じられる時代なのです。
ここでも《8流》の信仰の問題です。
芸術であると信じれば、何でもアートは成立するのです。
能天気な世界です。

それで、どこが悪いと言われれば、
芸術のゲの字も無い美術というのも、
それはそれで過激で、面白いと言うしかありません。
その空無性が,芸術に似ているからです。

ハリウッドのエンターテイメント映画は、
見ている時には面白くて、
終わってしまうと空しいですが、
ああいうもののを肯定できる、若さというのも、
あるのです。

そのうちに飽きて、
ハリウッドのエンターテイメントは、まったく
受け付けなくなりますが、
それでも私なんかも下品ですから、
どこかで常に、そういう、「面白いもの」を求めている。

芸術という名前は、そうしたインチキ性をはらんだものと言えます。
そういう、インチキ美術の若手の代表と言えるでしょう。

エンターテイメント絵本画の女王
鴻池朋子

東京芸術大学日本画卒後、
玩具のデザイナーを経て、
国内外の美術で絵画、彫刻、アニメ、絵本などの作品を積極的に発表してきたという。

芸大日本画を卒業しているという事で、アーティストと誤解されているのだでしょうが、
これはただのイラストレイターでしかない。

池は2000年に初めてペインティングの個展を開催したという。
そういう意味で2000年代作家であります。
以来、鉛筆アニメーション、立体作品、
また、渋澤龍彦の「狐媚記(こびき)」の挿画制作
東京を森にする「六森未来図」(森美術館ワークショップも展開。
「美麗新世界」広東美術館(中国)、CAAC美術館(スペイン)でも展示が行われた。

鴻池朋子**.jpg

鴻池朋子の顔である。

《想像界》の眼で、《8流》の人。
《象徴界》の眼で、《8流》の人。
《現実界》の眼で、《2流》美人。

《想像界》で主体を作っている人。
気体人間、つまり情報時代の作家、

気体という意味で、新しい時代の作家です。


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