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ウィリアム・ギャディスの顔 [文学者の顔]

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ウィリアム・ギャディス(1922〜1998)は、アメリカ小説家。

カーペンターズ・ゴシック (単行本)
ウィリアム ギャディス (著), William Gaddis (原著), 木原 善彦 (翻訳)
内容(「BOOKデータベースより)
答えのない謎、驚嘆すべき緻密な構成。再読・再々読によって浮かび上がる複雑な筋=陰謀。言いよどみ、中断、繰り返し、言い直し、脱線、他人の言葉の引用などに満ちあふれ、機関銃のような会話の織りなす黙示録的狂想曲。

さて、ウィリアム・ギャディスの顔である。

《41流》《41流》《41流》
《1流》《1流》《1流》
想像界、象徴界、現実界、3界同時表示。
固体/液体/気体、3様態同時表示。
非実体的、非合法的。

すごい顔をしている。




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吉本ばなな/ よしもとばなな の顔 [文学者の顔]

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吉本ばななは、
これも読めなくて、
何度も挑戦したのだが、無理だった。

女房が読んだので、買う事は、結構買っている。

読みやすく、
やさしいからと言って読めるものではなくて、
たとえばハーロクイーンロマンスも、読もうと努力したが、
読めなかった。

くどくどしく、読めない言い訳を書いても面白くないが、
結局、このブログを書くために、
吉本ばななの最初の本を読んだ。

キッチンは、
満月(キッチン2)
と続けて読むと、
普通のメルヘンなお話。

興味深かったのは3本目の「ムーンライトシャドウ」。
今時の精神世界と言うか、
オカルト的な現象を、
日常的な現実として、普通に描く文学。
これこそは、文字通りのメルヘンであり、ライトノベルであった。

3つとも同一テーマを扱っているので、
実質的には一つの作品と考えて良い。

実はこの「ムーンライト・シャドウ」が、
日本大学芸術学部文藝学科の卒業作品と言う事で、芸術学部長賞を受賞している。
事実上の処女作である。
「はじめにすべてありき」という原則で言えば、
この作品で、判断出来る事は多い。

ライトノベルと先ほど言ったが、
東浩紀の『ゲーム的リアリズムの誕生―動物化するポストモダン2』で
取り上げている様なライトノベルではなくて、
しかし非合法性、非実体性があるので、
文学と言うか、芸術であるとは言える。
《6流》で、固体文学。想像界の文学。

つまりライトノベルの中に、
大衆文学系と、純文学系のライトノベルの2層化がおきていて、
私見では、村上春樹や吉本ばななは、
この純文学系ライトノベルではないか?と思うのだ。

「キッチン」に収録されている3本の短編で、
その3本同一のテーマと言うのが《死》 である。

この処女作品集が出版されたのが1991年である。
この年、デミアン・ハーストが《死》をテーマにした作品で最初の個展を開く。
そしてまたニルバーナが「ネヴァーマインド 」で、《死》を全面に押し出して、ヒットになる。

ニルバーナの表現を支持したのが、
アメリカではジェネレーションXと呼ばれた世代で、
おおむね1959年から1980年の間に生まれた世代のことらしい。

日本のジェネレーションXが、吉本ばななを支持したのかどうかは、
私には判断出来ないが、
文学そのものの中に、ある変動が起きた事として、
読むことが出来た。

それは《意味としての文学》から、
《本質としての文学》への変貌である。

もっともこういう言い方は、
彦坂尚嘉流の「方言」すぎて、誰にも分からない。

それで言い直すのだが、

シニフィアンとしての文学が終わって、
シニフィエとしての文学が登場した。

なおさら分からなくなったが、
図式的には、1975年のアメリカのベトナム敗戦で近代芸術そのものが終わり、
その文化変動は1980年に入ると明確な質をおびて、
1986年のバブルの発生以後にはそれが膨張し、
1991年のソヴィエとの崩壊以後加速して、
グローバルな展開をとげて、
吉本ばななや、村上春樹が世界的に売れて行く様になる。

ただこの変動そのものは、
音楽で見て行くと1980年代に入るとすぐに質の変化として現れていて、
音が《41流》化してくるのである。
早い例は、フィンランド出身のロックバンドであるハノイ・ロックス(1980〜1985)
とか、
アメリカ西海岸パンク・ロックバンドの先駆者といわれるバット・レリジョン(1080〜)
である。
そして1983年のメタリカの「キル・エム・オール」(収録の10曲中、4曲はメガデスのデイヴ・ムステインの作曲)です。

このような《41流》化は、実はローアートに起きるだけでなくて、
ハイアートの中にも起きていて、
「前衛の停滞期」と言われる1970年代後半を超えて、
1980年代に入ると、ブライアン・ファニホウの「新しい複雑性」の音楽や、
スペクトル楽派といった中に《41流》の音楽があらわれる。

こうした音楽の上下両方の領域での《41流》の出現を見て来たものとしては、
文学の変貌も、もう少し我慢して読んで、
構造的に理解したいと欲望するのだ。

現代文学としては、最初の作品として1980年の田中康夫の『なんとなく、クリスタル』があげられるという。
これは私も読めている。
1981年には、高橋源一郎が『さようなら、ギャングたち』でデビュー。
私も高橋源一郎を何冊か買っているが、これが評価がむずかしい。
1983年にはロシア文学に造詣の深い島田雅彦が『優しいサヨクのための嬉遊曲』でデビュー。
島田雅彦氏はお会いした事はあるが、読めていない。

アメリカの文学では、主流文学と通俗文学の境界解体とか、
前衛文学とポップカルチャーの融合、
そしてSF小説と純文学の融合や、
探偵小説と純文学の融合といった潮流があったという。
この辺を読んで行かないと、
私としてはまずいのだろうと、思う様になった。

まあ、これ以上は、別の日に、
もっと丁寧に書きたい。
ちょっと体調をこわしているので、
急いで、
さて よしもとばなな(本名・吉本真秀子)
の顔である。

想像界の眼で見て、《6流》のイメージ。
象徴界の眼で見て《6流》《6流》《6流》
現実界の眼で見て《6流》の現実。
固体の人。
想像界の人。

《6流》というのは自然領域である。
天然人というか、
新野生の人というか、
そういう人に見える。

固体と言うのは、氷河のように凍っていて、
ゆっくりと動く人。

想像界というのは、世界をイメージやファンタジーで見ている人。

入れ墨を2つしていると言う。
右の太ももにバナナ、左肩にオバケのQ太郎のタトゥーだそうです
現代文明の中に発生した、
新野蛮人である。

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ひこさか なおよし/1946年、東京世田谷生まれ。ブロガー、美術批評家、美術家
日本建築学会会員、日本ラカン協会幹事、アートスタディーズ・ディレクター
著書に『反覆・新興芸術の位相』(田畑書店)
『彦坂尚嘉のエクリチュール/日本現代美術家の思考』(三和書籍) を発売中。
ギャラリーは、タマダ・プロジェクト・コーポレーションと、ギャラリー手。








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村上春樹の顔(加筆) [文学者の顔]

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実は、私は村上春樹(1949年〜)が読めなくて、
苦労してきたのである。

1980年代以降の日本文学、現代文学を代表する最も評価の高い文学者の1人であると、
言われるのだが、
私自身は1970年世代のせいか、読めないのである。

買うのは買っていて、努力はしている。
『1973年のピンボール』(1980年)
『羊をめぐる冒険』 (1982年)
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』 (1985年)
『ノルウェイの森』 (1987年)
ダンス・ダンス・ダンス』 (1988年)
『海辺のカフカ 』(2002年)

買うだけは買っているのだが、
『ダンス・ダンス・ダンス 』(1988年)
は読了できて、しかもそれなりに面白かったのだが、
その以外が、ばかばかしくて受けつけない。

私の回りの若い友人は、みな村上春樹のファンだし、
清水誠一などの同じ世代でも、
ほとんどを読んできている人は、何人かいる。

福田和也の『作家の値打ち』でも、
夏目漱石以降で最も重要な作家と位置づけているほど、
高い評価があるのだが、
しかし私の評価は低いのである。

最も、
福田和也の『作家の値打ち』では、
第三の新人の遠藤周作、安岡章太郎・吉行淳之介、小島信夫らを高く評価している。
私が中学、高校生で読んでいたのも、
遠藤周作、安岡章太郎、小島信夫から、石原慎太郎であった。

石原慎太郎も福田和也の評価は高い。

私のような古い世代の文学体験からは、
村上春樹は、なかなか分からないのかもしれない。

もっとも分からないのは私だけではなくて、
ある種の文芸評論家の、かなりの人数の人たちの中に、
村上春樹に対する憎悪があるらしい。

正統的な日本文学を駄目にした張本人
とのレッテルも貼られているということである。

批評家の蓮實重彦を筆頭に、松浦寿輝、渡部直己などが批判しているという。

ならば、村上春樹批判は、プロの文芸批評家に任せよう。
私が同じ様な批判をしても、面白くはない。

言語判定法』による認識の人・彦坂尚嘉としては
なぜ、読めないのか?
を、美術家である眼から、分析してみよう。

そこで絵画を見る様に、村上春樹の顔を鑑賞してみる。
そして言語判定法で、
分析してみる。

■《1流》《1流》《1流》である。

それほど悪くはない。
悪くないというよりは、
《1流》という社会的常識の領域である

■《想像界》だけの人。

この辺で、ヒッかかってくる。
顔で見る限り、成熟した人格の持つ豊穣さが無い。
想像界だけの精神というのは、子供の精神と同位である。
普通の人と言っても良い。
普通の人が、日本を代表する文学を書く時代なのである。

《固体》の人。

これも、うなる。
《固体》の人というのは、前近代人ということで、
古い人を指し示している。


さて、こうした顔の分析を手がかりに、
彼の文学を読み返してみると、
まず、村上春樹の文学そのものが,
想像界の精神で描かれたファンタジー小説であると言えるのではないか。
つまり「ハリー・ポッター」の高級版なのではないか。

男と女の、さりげない会話や、その間の情緒の停滞、
そうした描写が、癒しを求める若い人々を魅了するのは理解出来るが、
それすらが、実はファンタジー小説の領域ではないのか。

もともと《近代文学》は、《象徴界》の精神の文学であった。
だから、近代以前の「千夜一夜物語/アラビアンナイト」や「竹取り物語」
のような《物語》が《想像界》の精神のファンタジーで書かれている事を否定して、
近代小説は、《象徴界》の文学として成立した。

ところが村上春樹の小説は、想像界の精神で書かれている。
近代小説の系譜ではなくて、
ファンタジーの空気に満ちた《物語》という、
前近代的なものに回帰してしまっている。

それから私の読み進められない大きな原因である、ゆっくりしたスピード。
私個人の資質だが、怠惰なくせに、せっかちである。
急ぎたいのだ。
自動車運転で言えば、急ハンドル、急ブレーキという、
やっては行けない事だらけに満ちている。

そういう私の性格的な欠点もあって、
村上春樹文学のスピードの、ゆったりとした流れに我慢がならなくなる。
せっかく一区切り読んでも、そこに意味がたち現れなくて、
少女の夢のような空気しかない。

もっとも想像界の精神が作り出すものは、
意味は無い。
ただ万華鏡の様な変化だけである。
村上春樹の万華鏡は、超スローモーションの世界なのであるが・・・・。
そこに深い意味を見る人々の群れがいる。
ただのろいだけなのに。

それは村上春樹文学が《固体》であることと関連している。

私の水の比喩で言えば、
《固体》、つまり氷河の様な状態の文学で、
氷河が流れる様にゆっくりと動いて行く。

ところが、近代小説が成立した時代というのは、
産業革命によって温度が上がり、氷河が溶けて、
氷が《液体》の水になって、川になって、時代は速くに流れる様に動いて行った。
つまり近代文学は、《液体》の文学で、川の水の様に早くに流れるものだったのである。
もっとも川というのは、上流、中流、下流でいろいろな早さで流れるので、
いろいろな文学があることになる。

それが村上春樹の文学では、
近代以前の物語のファンタジー世界に回帰して、
しかも近代以前の氷河のような、ゆっくりとした時間系になっている。

おそらく、この想像界だけの文学=ファンタジー小説、
しかも氷河が流れる時のようなゆっくりした時間と存在感が、
現代という時代の多くの人々を魅了しているのだと思う。

村上春樹の執筆そのものが、
こうした、ゆるい、のろい展開の時間の流れそのものが目的であるかの様なのである。
こうしたのろさが、多くの人々を魅了するのだと思う。
ゆるい、のろさの、時間の流れそのものに、
多くの読者は、深い意味を見いだしているのだ。

多くの人々と言った時に、
それはローアートを愛好する無知無能の人々(正確に言えば、無知無能を最善の純粋な理想とする価値観の人々)
の群れを含んでいる。

文章は、平易で読みやすいと言われているが、
これは氷河が流れる時のようなゆっくりした時間と結びついている。
「敷居の低さ」で「心に訴えかけ」る文章というのだが、
この分かり易さは、実は村上春樹文学が、ローアートだからである。
村上春樹が設定する読者対象が、
そもそも無知無能を、人間の無垢な真実として、
最良の善とする人々なのである。

私のアトリエの電気工事をしてくれた電気屋さんの加藤電機さんは、
幸福の科学の会員である。
彼によると幸福の科学の教祖・大川隆法の「霊言集」が、
「分かる」から
魅力があると言う。

私も何冊ももらって、読んだ。
こういう白痴主義的な戯言にみちた「霊言集」ものを、
「分かる」から良いという気持ちは、
何とも切実なことだと、私は思う。

カントをはじめとする多くの哲学書は難解だし、
ドストエフスキーなどの世界の文学もまた、確かに難解なものが多い。
無知無能な人々に分かるという感覚を与える執筆をすることは、
ローアートの文学者には必須の技術であり、目的なのである。
村上春樹文学は、
無知無能な人々に分かる様に書いた「霊言集」と同位のものではないのか。

無知無能の人々に読まれようとする時に、
想像界の精神で書かかれたファンタジー小説が精神形式として登場する。
さらにゆっくりと流れる氷河の様な動きが、
多くの人に安心を与える。
そして氷という固体の確かさの運動は、無知無能な人々に、
深い意味があると言う錯覚を与えるのである。

福田和也の「作家の値打ち」でも、
村上春樹は、《純文学》に分類されているのだから、
あくまでもハイアートであると、人々が信じて読んでいることは知っている。

しかし彦坂流のハイアート、ローアートの分類は、一般常識とは違う。
誌面の都合上、ローアートの定義は既に書いて来たブログの記事にゆずっておく。

彦坂流の視点で見ると、
村上春樹の文学はハイアートの顔をした《ローアート文学》である。

それは従来の「純文学」と「大衆文学」の区分では見えなくなってしまうものなのである。

美術で見るとよりはっきりするのだが、
たとえばクレメント・グリーンバーグが1939年に書いた
「アヴァンギャルドとキッチュ」は、名論分ではあるが、
しかし彼の2分法は、今日では無効になってしまっている。

それはアヴァンギャルドのスタイルを取り、
アヴァンギャルドの人脈の中に生まれながら、
アヴァンギャルドの美術や、音楽の中に、
大量のキッチュというべき、ローアートが出現しているからである。

アヴァンギャルドのハイアートであっても、
そのお手本のもとに、模倣の連鎖を繰り返す人々が出現して、
ローアート化するのである。
そして《アヴァンギャルド・キッチュ》というべき現代美術と、
現代音楽、そして現代舞踊の、愚劣な作家と作品群があふれる。

おなじことが文学にも出現して来ている様に思う。
純文学の顔をした大衆文学の登場である。
それが村上春樹や、よしもとばなな ではないのか。

ちなみに、よしもとばなな の文学もまた《固体》の文学である。

よしもとばなな や、村上春樹の氷河のような《固体》の文学に、
何故に多くの、しかも世界の人々が引きつけられるのか?
なぜなら現代が、水が蒸発した気体状態になっていて不安定だからである。

そして近代という時代の、
川の流れの様な進化形式が終わって、
水が蒸発し気体化して、
まるで雲の様になって、
世界が気象化して不安化したしたのである。

気象化したことは、
実は循環系になった事なのである。
気体化した水は、温度が下がれば水に戻って,雨になって降る。
あるいは、もっと温度が冷えれば、雪やヒョウになって、固体に戻るのである。

彦坂流には、全人類の歴史を、水(H2O)の比喩で、
次の様に図式している。

固体・絶対零度(原始時代=すべて凍って動かない世界)


固体(前近代=農業化社会の時代、水(H2O)は氷で固体状態で、氷河のようにゆっくり流れる)

液体(近代=産業化社会の時代、水(H2O)は溶けて液体になり、川のように速く流れる)

気体(現代=情報化社会の時代、水(H2O)は蒸発して気体分子になり、雲となり気象化する)

と変化して来た水(H2O)が、
気体分子化してしまい、雲となると、
循環系として、
冷たくなれば雪やヒョウになって、再び固体の氷に戻っていくから、
この《固体》化を、
未来の永劫回帰の姿として、
ある種の前衛として誤解する人々が登場する。

同じ事は、想像界性にも言える。

人類の精神史は、

想像界(=呪術/原始時代の上部構造)

象徴界(=世界宗教/農業化社会の上部構造)

現実界(=科学/産業化社会の上部構造)

想像界(=情報科学/情報化社会の上部構造)

と変化して来た。

つまり、情報化社会になる事で、
再度、想像界の時代に回帰したのである。

全人類の歴史が、
ニーチェの言う様に永劫回帰して循環してしまった。

回帰して、
想像界の呪術世界が、
前衛性として再度誤解して受け取られている。

つまり村上春樹文学は、ファンタジー小説と呪術文学であるのではないのか。

村上春樹の文章の平易さとは裏腹に、
作品のテーマや世界観は難解であると言われている。

私が読めないのは、この難解さなのか?

読解が容易ではない箇所が多々あるといわれるが、
それは物語自体が、想像界であるからだ。
想像界を支配しているのは、と呪術である。

村上春樹の文学が示しているのは、
近代の啓蒙精神が否定して排除した《迷信》世界なのである。
《迷信》と《偶像崇拝》と、《呪術》が,
今日の無印良品のように大量生産化されて、
しかも無菌消毒ずみで提供されている。

無印良品のように現代化された《迷信》と《偶像崇拝》と《呪術》を、
楽しんで読める精神が、
村上春樹の読者になるには、必要なのである。

村上春樹の物語中の理解しがたい出来事や現象は、
《迷信》《偶像崇拝》《呪術》の三位一体の世界だからこそに起こることであって、
それもまた想像界だけの精神が見る、地獄の物語である。

こういう彦坂尚嘉流の分析を経て、
さて、村上春樹を読めるのかどうか?

あまり食欲はわかないのだけれども、
今回勉強して知った事は、
村上春樹の文体が、
リチャード・ブローティガンと、
カート・ヴォネガットからの影響であるという。

そこで2人の顔を見てみた。


Brautigan.jpg
リチャード・ブローティガンは《8流》《8流》《8流》。
想像界だけの人、固体の人。
村上春樹に似ているが、村上は《1流》だから、村上よりもブローティガンは落ちる。
たぶん、村上春樹はブローティガンを下敷きにして《格》を上げたのではないか?

もう一人の
カート・ヴォネガットの顔である。

ヴォネガット1.jpg
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カート・ヴォネガットの顔が〈超1流〉〈超1流〉〈超1流〉で、
すばらしい顔である。
村上春樹よりもヴォネガットを読んでおこうと思った次第である。

カート・ヴォネガット(Kurt Vonnegut, 1922年- 2007年)は、アメリカの小説家、エッセイスト、劇作家。
抑制された独特の語り口で、
人類に対する絶望と皮肉と愛情を、
シニカルかつユーモラスに表現した作品を多く手がけた、
現代アメリカ文学を代表する作家の一人ということである。
村上春樹にも、この人は影響を与えているという。

少なくとも顔は、
村上春樹よりも、ヴォネガットの顔の方が上である。
〈超1流〉〈超1流〉〈超1流〉
しかも〈想像界〉〈象徴界〉〈現実界〉の3界を持っていて、
固体・液体・気体の3様態を合わせ持っている。
精神的に完成されている人物である。















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