So-net無料ブログ作成
検索選択

草間弥生の作品評価をめぐって(加筆1) [アート論]

Georgeさんから、以下のような、ご批判を受けましたので、お答えをしたいと思います。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
画像のゼロ号のカボチャの絵、私のボスの家のバスルームに飾ってあります。そのボスはキュレーターで、私はそのアシスタントです。私は、「写真で見るより良いな」と感じました。◆

「そういう人達は偉大な過去の芸術家が嫌い」という部分は、どのような根拠から、そう思われる様になったのでしょうか?
彼等は、確かに一つ上の世代の芸術表現は嫌いますが、古典的な物は、意外と好む傾向があると私は思うのですが、
どうでしょう?

また、草間氏を過去の偉大な芸術家達と比較して、6流だとしていますが、アートにおいて、それぞれの作家に偏差値を付ける様に、比較する必然性があるのでしょうか?
私にとってそれは、「StarWarsのダース・ベイダーとブルー・スリーとを闘わせたらどっちが強いかな?」という疑問と同じくらい、ナンセンスなように感じます。それぞれの世界観があり、魅力があるのだから、それを一列にならべて順位付けする事に意義を感じられません。 
by George (2008-06-04 10:32)  

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

Georgeさん、書き込みありがとうございます。順番に、私の考えを書きます。
まず、「私は、「写真で見るより良いな」と感じました。」というGeorgeさんのご感想は、ボスの買っている作品という事も心理的には影響を与えているとは思いますが、それでも「良いな」と感じられた感覚には、事実性とか、真実性があると思います。その限りでは、良いのではないでしょうか。

問題は、その先にあるのです。似た例を挙げますと、岸田劉生の作品評価をめぐって、ぶつかったことがあります。
ぶつかったのは、有名な現代美術の画廊の番頭さんの女性です。私が、岸田劉生を《6流》と言ったのを怒って、「自分は、岸田劉生の絵を見た、感動した体験がある」と言って、反論したのです。
私はその女性が感動したいう事は、事実であると思います。真実と言っても、良いです。私も、中学生の時に、岸田劉生の麗子像に感動した体験があります。だから、その女性が、私の《6流》論に怒りをもったことも、理解で来ます。

しかしこういう体験や、怒りは、哲学用語で言うと、「自然的態度」というものであって、私の作品評価は、この「自然的態度」の水準で、やっているのではありません。

岸田劉生については、神奈川近代美術館で岸田劉生の回顧展が開かれた時に、その作品の評価をみんなで確認する会を、私は開催しました。集まったのは、ニューヨークから来た美術史家の富井玲子さん、そして東京画廊3代目社長の山本豊津さん、神奈川近代美術館学芸員の担当であった原田光さん、そして彦坂尚嘉です。
会場を見ながら、評価の議論をしたのですが、岸田劉生の絵画は、グリンバーグが言う深いイリュージョンの絵画空間というのは描けていないのです。「切り通し」の絵でも、空が、大空間になっていなくて、青いベニヤ板のようになってしまっています。谷川渥さんが図説・だまし絵』(河出書房新社/1999年) で論じている、だまし絵の絵画構造を、岸田劉生の絵画は持っているのです。
担当学芸員であった原田光さんも、長い時間見て来て、結局駄目である事は認めていました。「だまし絵」というものは、尊敬しないと言う価値観というか、約束があるのです。それは単なる約束ではなくて、芸術的には低いものなのです。つまり岸田劉生は、画家として低いのです。Bクラスの画家であって、Aクラスの画家ではありません。映画にB級と、A級の区別がありますよね。ああいうものです。

では、その有名現代美術画廊の女性の番頭さんの、岸田劉生に感動した体験は、嘘であったのでしょうか?
いえいえ、そうではないのです。それも本当の事であったのです。そういう女性の番頭さんの体験は自然的なものであって、自然的な体験というのと、反省的な態度での認識というのは、次元が違うのです。

分かりやすく言うと、若い女性が、すばらしい青年に出会って、結婚を約束します。気がつくと騙されて、捨てられて、大金を失っている事に気がつきます。つまりその青年は、結婚詐欺師であったのです。

自然的態度というのは、こうして詐欺にあっても、チェックが出来ないのです。こういう詐欺は、芸術界では、日常茶飯事なのです。作品の8割は偽物なのです。自然的態度では、詐欺に遭うことの危険性は、避け得ないのです。ですから、自分が作品を見て、直接に感動する事と、作品を学問的に、反省的に見て、検証する事は、違う次元の事なのです。

草間弥生の絵画は、原始平面の絵画であって、人類の絵画の歴史の中では、Bクラスの絵画です。グリンバーグの言う、オプティカル・イリュージョンも成立していません。素人にでも描ける、水準の低い絵画です。グリンバグの分類ですと、絵画には4つの種類がありますが、その中のペンキ絵に、草間の絵画が該当します。

【加筆1】
こうした私の考えとは、反対の考え方はあります。その代表は、 ジャン・デュビュッフェです。彼は、美術の伝統的価値観を否定して、「生(なま)の芸術」を提唱したのです。デュビュッフェは従来の西洋美術の洗練された技法や様式、巨匠の名人芸といったものに価値を認めなかったばかりか、西洋文明そのものを痛烈に批判し、子供、「未開」人、精神障害者などによる絵画をアール・ブリュット=生(き)の芸術と呼んで賛美したのです。彼は精神障害者らの絵画を収集し、展示したこともあります。
草間の美術もまた、こうしたアール・ブリュットの文脈をもっています。草間自身が、代より統合失調症を病み、繰り返し襲う幻覚幻聴から逃れるために、それら幻覚幻聴を描きとめるを描き始めたとして、こうした精神障害者らの絵画を評価するという文脈で、評価されて来たのです。

私自身は、もちろん、こうした「生(なま)の芸術」の主張を知っています。が、しかし、その主張を、低いものとして、否定的に考えるに、至っています。ですから、根本にあるのは、この価値観の差です。
実は、それはかなり微妙な差であって、抜き差しならないものがあります。
フロイトの《退化性》という芸術に対する解釈に対する、その解釈のぶつかり合いになります。つまり、こうしたアール・ブリュットの作品を、かなり沢山見て来た結果として、私は、これを芸術作品としては、認めない側に、至ったからです。
ジャン・デュビュッフェの作品も、草間弥生同様に、良い作品とは、思えません。

つまり、私の価値観は、デュビュッフェが批判した、従来の洗練された技法や様式、巨匠の名人芸といったものに価値を認めるという、そういう伝統的な芸術観の系譜に回帰しているのです。保守、反動の芸術観であると、言えます。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
次の部分です。

『「そういう人達は偉大な過去の芸術家が嫌い」という部分は、
どのような根拠から、そう思われる様になったのでしょうか?』

3人の人物を匿名で、説明します。
ひとりひとり少しづつニュアンスは、違います。

まず、アメリカから草間弥生が帰って来て、すぐに大規模な個展を開催します。
銀座のギャラリーセンタービルの地下一階にあった、大阪フォルム画廊の東京支店でした。
1974年だったと思います。
非常に良い個展でした。もちろん私は見ています。
これを開催したのが、この大阪フォルム画廊の東京支店の番頭さんをしていたA氏です。

この後も、A氏は、草間を現在にまで、売り続けて来ています。私もA氏と付き合い続けているので、私も草間の作品は、膨大に見ています。

草間は、その後、フジテレビギャラリーに入って、個展を繰り返して来ています。しかし、あまり売れなかったのです。個展が終わると、そのフジテレビのシールの着いた作品を、草間は、他の業者に、フジテレビギャラリーには内緒で、定価の価格以下で、裏で売って行ったのです。後からフジテレビギャラリーは気がついて、怒っています。草間のお金に対する執着心はすごいものがあったのです。私も見習わなければ、いけないと思います(笑)。お金だけでなく、名誉欲も、異様に強いというのが草間であって、その執着心の強さは、狂気と言えますが、しかし立派なものであります。

それから草間は、贋作を、自分でつくります。年号を偽ったものです。現在、美術館に入っているものでも、贋作があります。私たち玄人には、それが分かります。アメリカから突き返されたものもあります。何しろアクリルで描きながら、年号は、まだアクリル絵の具の登場していない時期の年号を書いたのですから、ばれるのは当たり前です。こういう所に見られるのは、極めて原始的な心性であって、知能犯のそれではありません。さすがに最近は、こうした事は無くなっているのだろうとは思います。こうしたことは、多くの業者が知っている事です。

草間の版画は、日本では二つの工房で刷られていますが、それのほぼ全部が、エスタンプです。アメリカの、たとえばジャスパージョーンズは、工房で、きちんと自分の手で、版画を作っています。日本人で、これに参加したのはギャラリームカイの息子さんでした。私はムカイで版画をつくっているので、息子さんから、お話を聞いています。それに比較すると、草間は、原画だけ出して、工房が版画を作っています。一種の複製です。こういう制作の仕方を、エスタンプと呼んで、本物のアーティスト版画とは区別して来たのが、正しい伝統的なものでした。実は、私の版画を作ってくれていた工房が、草間のエスタンプを積極的に作って来ていたので、私は直に20年ぐらい、草間の版画生産を見て来ているのです。つまり版画においても、草間の制作態度は、本物のそれではないのです。

それと、草間は自分では描いていないものが、たくさんあります。0号の作品は、助手が描いたものが、たくさんあります。だからいけないと、私が言っているのではなくて、ひどい下手な助手の手の跡を見ると、しらけると言っているのです。このことも、多くの人が知っていることであって、私がとりたてて言っていることではありません。特にここ10年くらいは、工房生産体制になっているのではないでしょうか。これも非難をしているのではありません。そういう事実を沢山知っていないと、草間の作品を理解している事にな、ならないからです。

さて、本題です。

この草間を初期から売って来たA氏は、優れた目を持っている真面目な画商ですが、特徴と言うか、限界があります。たとえば国立近代美術館で開催された『琳派』展を見て来て、「彦坂さん、光琳はすばらしいですね」というのです。

私は「光琳は下品、何と言っても宗達でしょう。宗達を見ると泣けますね」と言ったのですが、Aさんは、「宗達は見てこなかった」というのです。光琳は、画家としては《1流》にすぎなくて、《超1流》の宗達に比較して、落ちます。偉大なのは宗達です。

しかしAさんが《1流》でしかない光琳にひかれるのは、これは普通の現象なのです。一般的に、人は《1流》の作品にひかれて、《超1流》の作品を嫌います。Aさんにも、その傾向があるのです。レオナルド・ダ・ヴィンチの話をしても、彼は見てこなかったと答えています。

メトロポリタン美術館のゴッホのある部屋で、観客を観察したことがあります。
観客の多くが、ゴッホの「アイリス」という花の作品をデジカメで撮っています。

ゴッホの「アイリス」は《1流》作品です。
そこから、少し離れた所に、「糸杉」があるのですが、
観客の目は、「糸杉」を凝視する事無く通り過ぎて、デジカメの撮影もしません。
「糸杉」は《超1流》作品なのです。

いうまでもなく、ゴッホの「糸杉」は、傑作として有名な作品ですが、多くの観客の目には、入らないのです。

この多くの観客の目と同じ傾向を、A氏も、示しているのです。

それは人間が、どおしても社会を生きて行く時に、社会的理性である《1流》領域への適応に集中しているからです。そしてこの社会的理性である《1流》領域の外に出てしまった《超1流》を、嫌うか、無視する傾向があるのです。

《超1流》の作品を無視してしまうと、美術史は、貧しいものになります。
レオナルド・ダ・ヴィンチのいない、ルネッサンスは、画竜点晴を欠いた凡庸なものに過ぎません。

しかし、多くの人々は《超1流》の作品は、好きではないのです。
会田誠さんの座談会の話を書いた時に示した様に、
座談会の出席者は、レオナルド・ダ・ヴィンチのドローイングを選ばないで、
同じ工房の凡庸な画家の描いたドローイングを選んだのです。

Georgeさん自身は、いかがですか?
レオナルド・ダ・ヴィンチの描いたものを、良いと言えますか?

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

こういう調子で、草間を推薦していった何人かの人の目の実例を挙げることが出来ますが、
まあ、社会的には、まずい事ではあります。
私は、人の目を観察していますから、
その人が何を、どの程度見えるのかを問題にで来ますが、
しかし、論じられた人は怒ります。

アメリカでの草間の展覧会を、初期に作ることをしていたのが、
美術史家のBさんです。

それと、草間をヴェネチア・ビエンナーレで押し出したのが、
現在、某美術館の館長をなさっているC氏です。

彼らの目を論じる事は出来ますが、
今回は、このくらいにしておきましょう。

最低で言えば、C氏は、《6流》が好きです。
これを巡っては、ずいぶんと議論を彼としています。

B氏は、プッサンが分かりません。
セザンヌも、静物画は分かると言いますが、セザンヌの中にある空想画の系譜が、分からないのです。

草間の好きな人は、どこかで、芸術コンプレックスがあると、
私は思います。

芸術の高度な複雑さが苦手で、草間の様な原始的で、下品なキッチュな美術に引かれるのでしょう。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
『また、草間氏を過去の偉大な芸術家達と比較して、
6流だとしていますが、アートにおいて、それぞれの作家に
偏差値を付ける様に、比較する必然性があるのでしょうか?』
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

比較する必然性があります。

きちんと比較できなければ、良い作品をつくれません。

文章でも同様で、どれが良い文章で、どれが悪い文章化を読み分けられなければ、
良い文章は書けません。

このことは谷崎潤一郎の『文章読本』にも書かれている事です。

具体例としては、山田正亮の作品問題で、お答えします。

C氏は、美術は1回でも、本当に感動すれば、それで良いと主張なさったので、
山田正亮の例を、私が、以前に実例として出したのです。

山田の作品が10号で180万円を超えた時があります。その後、作品は暴落して、業者間取引で、15万円ほどになりました。
こうして165万円が消えるのですが、「それで良ければ、良いでしょう」と、私が申し上げた所、C氏は、それは困ると言ったのです。

美術の世界では、8割は偽物です。そうした中で、高額のお金が動くのですから、作品が、真性の芸術か、それともシュミラクルな、ニセの芸術なのかを、見分ける目を、養う必要があるのです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
『「StarWarsのダース・ベイダーとブルー・スリーとを
闘わせたらどっちが強いかな?」という疑問と同じくらい、
ナンセンスなように感じます。』
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

こういう疑問は、ナンセンスなものではありません。StarWarsのダース・ベイダーと、ブルー・スリーを、軍事論的に比較する事は、出来るのです。それがナンセンスに見えようとも、出来るという事です。その場合に、しかし何らかの媒介物が必要です。

たとえば、日本が日露戦争を終えて、世界の列強の8番目になった時の、軍事力の差を見てみましょう。

7番目がイタリアですが、8番目の日本と、7番目のイタリアの差が、80倍です。

そして1位がアメリカですが、8番目の日本と、1位がアメリカの差が、3000倍です。

ここで使われている媒介は、武器を作る時の鉄鋼の生産量です。

鉄鋼の生産量でもって、比較しているのですが、こうした比較の為の媒介物を入れれば、それは比較できるのです。

3000倍の軍事力の差があるアメリカと、日本は戦争をした訳ですが、こうした差がある相手とは、戦争をしない方が賢明なのです。

さて、私たちが生きている世界でももっともありふれた媒介物が、お金です。
お金で見積もる事で、私たちは、比較できないものを比較しているのです。

例えば、鶏の卵と、ゴッホの絵と、家の修繕費を、お金に換算する事で、比較する事は出来るのです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
『それぞれの世界観があり、魅力があるのだから、それを一列に
ならべて順位付けする事に意義を感じられません。 』
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

お気持ちはわかりますが、
それは、あなたの感性の退化現象なのです。


私が学生の時代には、ロックを聴いているというと、共通して聴いているアルバムが多くて、友人とロックの話し合いをしました。

今の時代は細分化が激しくて、ロックを聴いているというような言い方自体がナンセンス化しているのです。

そして、それぞれが好きな音楽で、蛸壺化して、他のものを聴かなくなっています。

そういた現象は美術にもあって、美術家たちは、他の作家の作品を見なくなって来ています。

ある有名画家ですが、パリに行っても、ルーブル美術館に入りませんでした。
もう一人、私が一緒にパリビエンナーレに言った作家も、酒ばかり飲んでいて、ルーブルに入ろうとしませんでした。
ヴェネチア・ビエンナーレに日本代表で行った、ある作家も、イタリア美術を見に美術館に入ろうとしませんでした。これを見ていた美術評論家のある人物からの報告です。
日本を代表していたある画廊は、ニューヨークにいっても、チェルシーのアメリカのギャラリーに入りませんでした。

有名な日本美術史の研究者ですが、海外に行っても、日本美術以外は見ないと、公言していました。

自分の世界だけに閉じこもって、自分の作品だけを見つめているのです。そういう傾向が強いのです。

これは感性の退化現象です。

建築の人々は、少なくとも他人の建てた建築を良く見て歩きます。建築ツアーを、私もずいぶん付き合って見ていますが、
こちらの方が健康だし、勉強をしない美術家たちは、歴史的に淘汰されます。

勉強を欠いた人々が、
尊敬される事は無いのです。

比較する事は、重要な精神の運動です。

私が、草間で問題にしたのは、
草間の作品にフロイトの言う《退化性》というものが、彦坂の言語判定法で見ると、
本質的に無くて、グラフィックになってしまっているという事です。

そして草間の作品は実体的です。
これは芸術ではなくて、エンターテイメントです。

草間の作品は、グラフィック・エンターテイメントという性格の強い売り絵なのです。

そして《6流》です。
決して、高度な芸術ではありません。

敗戦後、日本人は、原始的で、下品な美術が好きになったのです。
一種の、敗戦ぼけです。

草間のアウトサイダー・アート性が、
戦後の日本人の、退化した感性に、フィットしているのです。

さらにアジアの新興成金の趣味の悪さに、フィットしているのです。




nice!(0)  コメント(5)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アート

nice! 0

コメント 5

komatta

「お気持ちはわかりますが、それは、あなたの感性の退化現象なのです。」
っていうより、ライフ・サイクルだと思いますけど。
ヒコさんだって昔は、既成の順位付けに反抗して、価値の脱構築を図ったことがあるんじゃないでしょうか。
そこで、原始性や下品さやキッチュさに向かうこともあると思います。
要は、それで終わるか、壊したところから再構築が果たせるかです。

by komatta (2008-06-09 16:08) 

ban

いつもながら貴重なお話で、大変勉強になりました。
ありがとうございます。
by ban (2008-06-10 00:27) 

George

丁寧な回答、ありがとうございます。読み応えがありました。

『まず、「私は、「写真で見るより良いな」と感じました。」というGeorgeさんのご感想は、~~。』

私は、ボスを尊敬している部分もありますが、彼を崇拝しているわけではないので、「ボスが買った作品」という事実の、
私に及ぼす心理的影響は、限りなくゼロに近いです。私はそこまでボスを愛していませんし、そこまで軽薄でもありません。
そして私が「良い」と言ったのは、あくまで、私が写真を見て抱いてたイメージより実物の方が見応えがあって良かった、という事で、他の作家の作品と比べて「良い」という事ではありません。この部分については、私の説明不足ですいません。

『似た例を挙げますと、岸田劉生の作品評価をめぐって、ぶつかったことがあります。ぶつかったのは、有名な現代美術の画廊の番頭さんの女性です。』

「似た例」と言われていますが似ていません。
私と、その番頭さんの女性を重ねてお話されても困ります。私は、草間弥生氏のファンではありませんし、ここで、私と岸田劉生のファンである彼女を一色単にすることは、話の流れとして少々強引です。

また、その番頭さんの女性の事について言えば、自分の好意を抱いている作家や作品を6流と言われれば、誰でも不愉快に感じるのは当然でありますし、番頭さんの彼女が怒りを持った事は,
アート云々よりも、会話の中のデリカシーの問題のように感じます。

『しかしこういう体験や、怒りは、哲学用語で言うと、「自然的態度」というものであって、私の作品評価は、この「自然的態度」の水準で、やっているのではありません。』

私が、草間氏の作品を「良かった」と発言する=私が自然的態度の水準で物を言っている、と受け取られるのは、ヒコさんのイデオロギーから形成された極論であり、偏見です。
私が、草間氏の作品を一言「良かった」と言うと、主観だけで物を考え、客観性のない人間として位置付けられてしまうのでしょうか?「結婚詐欺を見抜けない人間」という所まで、議論が飛んでしまう事に疑問を感じます。

『Bクラスの画家であって、Aクラスの画家ではありません。映画にB級と、A級の区別がありますよね。ああいうものです。』

個人的に、やや強引な意見なように感じます。岸田劉生を西洋アカデミズムの視点から見れば、確かにAクラスの画家とは言い難い物がありますが、だからと言ってB級映画と一色単にするのも、あまりに安易なように感じます。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
『私自身は、もちろん、こうした「生(なま)の芸術」の主張を知っています。が、しかし、その主張を、低いものとして、否定的に考えるに、至っています』

なぜ、一方を「認める」為に、もう一方を「認めない」とする必要が出て来るのでしょうか?
生の芸術の素晴らしい所もあるし、そうでない芸術にも素晴らしい所がある、それではダメなのでしょうか?
アートに、唯一絶対の価値観、理想を求めていらっしゃるのでしょうか?
アートを論ずる上で、排他的な思想を持たなければいけないのでしょうか?
私が最初の書き込みでお尋ねしたかったのは、超1流アートや6流アートの定義ではなく、この事であります。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
宗達より光琳を好む人を、「限界がある」とするのも、ヒコさんの主観からくる偏見のように私は思います。
私は、光琳より宗達を好む人がいても、その逆でも、どちらかが間違ってるとは思いませんし、正解がある問題ではないので、白黒は付けられないと思っています。

そして、宗達よりも光琳を好んだからといって、ゴッホの「糸杉」を「アイリス」より好まなかったからといって、
また、ダ ヴィンチの真作を見抜けなかったからといって、その人達が「過去の偉大な芸術家が大嫌い」とするのは
話が飛躍しすぎだと感じます。(ちなみに、私自身は、ダ・ヴィンチの模写もたくさんしてきましたし、ダ・ヴィンチの凄さは、嫌という程知っているつもりです。ただ、私の感じるダ・ヴィンチの素晴らしさと、他者の感じる素晴らしさのポイントがピッタリ一致する必要はないと考えています。)

『私は、人の目を観察していますから、その人が何を、どの程度見えるのかを問題にで来ますが、
しかし、論じられた人は怒ります。』

つまりヒコさんは、それらの人達よりも、より素晴らしい眼力を持っていらっしゃる事を自負なされていて、その素晴らしい眼力をもったヒコさんからは、彼等は視界に霧がかかった下手物好きに見える、ということでしょうか?
そのように私には聞こえるのですが。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
『比較する必然性があります。
きちんと比較できなければ、良い作品をつくれません。』

それは、ヒコさんの信じる所の良い作品、という事ですね。
その「良い」というのは、唯一絶対の真理的な「良い」でしょうか? もっと漠然とした「良い」でしょうか?
現代の、この混沌としたアートシーンの中では、何をして「良い」とするか、それ自体が非常に難しくなって来ていますが。

『美術の世界では、8割は偽物です。そうした中で、高額のお金が動くのですから、作品が、真性の芸術か、それともシュミラクルな、ニセの芸術なのかを、見分ける目を、養う必要があるのです。』

株券を買う様に美術作品を買うには、良い物を見分けられる目を養うべきである、という事ですね。
では、美術作品の金銭的価値にかまわずに、ただ純粋に美術を楽しみたい人達にも、ありとあらゆる美術作品を比較し、目を養う必要性があるでしょうか? 贋作が出回る様な超高額の作品を取引する事だけが、アートの楽しみ方ではないと思うのですが。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
『たとえば、日本が日露戦争を終えて、世界の列強の8番目になった時の、軍事力の差を見てみましょう。』

私が、あえてstar warsとブルース・リーを出したのは、異なる2つの世界観の具体例としてであり、日本とイタリアの軍事力の差、またはゴッホの絵と鶏の卵の金額の差を例えに出していただいても、それらは同じ世界観の中での大小の話であり、私のナンセンスと感じた事例とは、ズレがあるように感じます。

中華料理、日本料理、フランス料理、イタリア料理等々、、ジャンルの違う料理を食べ比べて、どの料理が一番美味しいか?というのは私に取っては、意味のなさない事です。
が、一昔前「料理の鉄人」という番組が流行りましたし、総合格闘技も流行ってますし、比べようがないものをあえて同じ土俵に並べて、無理にでも比べて順位を付ける、というのも、一つのショウとしては面白いのかもしれません。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
『お気持ちはわかりますが、それは、あなたの感性の退化現象なのです。』

なぜ、私が、「それぞれの世界観があり、魅力があるのだから順位をつける必要はない」と言うと、それが感性の退化現象と捉えられるのでしょうか?
ロックしか聴かないお友達の例を出してくるのでしょうか?
また、ルーブル美術館に入らないお友達、日本美術しか見ないとお友達と私を重ねて論じられるのでしょうか?
私は、ロックにはロックの魅力があり、ジャズにはジャズ、オペラにはオペラ、それぞれの魅力があると言っていて、「ロックが素晴らしいからといって、クラシックはくだらなくて聴いてられない」との種の発言は一言もしてないのです。
むしろ、私はヒコさんが例えに出されたお友達と、逆の物言いをしてると思うのですが。
なぜ、「それぞれの世界観があり、魅力があるのだから順位をつける必要はない」という発言が、「自分の世界に閉じこもって、自分の作品だけ見つめている」という風に受け取られたのかが不思議です。

また、「あなたの感性の退化現象」という発言は、相手を侮辱し不快な思いを与える表現です。必要以上に、相手を感情的にさせてしまいかねない表現なので、建設的に議論を勧めたい時には、避けた方が良い表現だと、私は思いました。

建築家と美術家を並べて建築家の方が健康だ、という意見に関しましては、私には「一概には言えない」としか言えません。特定の職種と美術家を比べ、「どちらが優れている」という価値概念は、私の中にはありません。

『敗戦後、日本人は、原始的で、下品な美術が好きになったのです。一種の、敗戦ぼけです。』

それは、日本国内だけの問題ではなく、ピカソ以降の欧米の近代〜現代アートの流れを組むものではないでしょうか?

全体的に、議論が噛み合ってないような気がしましたが、その原因が私の説明足らずの文章から来た物だったのなら、恐縮です。

by George (2008-06-10 21:05) 

ヒコ

基本的に誤解があるのは、私は私の名前で、私の意見を言っているのです。私の格付けもそうですが、あくまでも彦坂尚嘉という個人が、自分の責任を逃げないで、間違いも含めて、どのように感じ、どのように判断をしているかを述べているのです。
最初から最後まで、私の主観です。
格付けというものは、あくまでも主観である事は、ムディーズのホムページでも明示されています。
私は、各自が各自の責任で、意見を言う自由ああると思っています。それが他人の同意を得られると、そのようには、あまり思っていないのです。事実沢山の弾圧を受けて来たし、告訴もされているし、私も告訴をしたこともあります。
人間の意見が多くの対立を生み、また人を傷つける事も知っていますが、しかし現在の様に、自由に語らなくなり、そして批評そのものが壊滅状態になった日本の社会を、健康だとは思いません。それもまた私の個人の意見であり、そして私の個人の主観を、このブログで書いて来ているのです。
 それは、特定の個人を説得したり、同意を求めているものではないのです。
 反論やご批判は受け止めますが、しかし基本的な誤解がある様に思いました。私は私の主観を述べているのであって、誤解や、間違いも含めて、私の主観の表出なのです。
by ヒコ (2008-06-11 03:12) 

これは私の主観にすぎん

あなたは、偉い方だ。「格付け」という言葉の響きが少しまずかったようですね。そこまであなたは偉いのかってことになる。そういうものですよ、人の反応というのは。多分。格付けって、あまり一個人がやるようなことでもないような気がします。格付けの言葉がなかったら、あっそうですかになるが、それがあると、噛み付きたい人は噛み付くだろうね、一般的な感想として。とにかくえらそぶっているように見え、聞こえるなぁ。
by これは私の主観にすぎん (2014-02-14 16:40) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この記事のトラックバックURL:
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。

×

この広告は1年以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。