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産業
ロックという言葉がある。
売れることを第一目的としたロックをおとしめるために使われている造語である。
商業ロックとも言われているらしい。
そういう意味では、
村上隆さんのような現代アートは、
産業アートとでもいうのだろうか?
あるいは商業アートか?
しかしこれでは、言葉として成立出来ない。
《商業的現代アート》
《売り絵的現代アート》
とでも、言うべきなのだろうか?
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「産業ロック」と言う言葉を考案したのは、
渋谷陽一であると言われている。
時代的にはパンクからニュー
ウェーブ・ロックに展開していた1970年代後半であるという。
このニューウェーブ・ロックを擁護する為に、
日本で人気のあった
ジャーニー、
ボストン、
TOTO等々に対して使い始めたという。
渋谷陽一は、「商業的な成功ばかり考えて、ロックの本来のすがたである『若者による、大人たちへの異議申し立て』という志を忘れている」として批判したのである。
同じ批判は、今日の売り絵的現代アートに言えるのであって、
村上隆的な現代アートは、商業的な成功ばかり考えて、アートの本来である
芸術による、社会への異議申し立てという志を忘れていると、批判出来ることになる。
こういう文脈で言えば、会田誠のような作品は、社会に対するアートからの異議申し立てという志をもった、すぐれた芸術ということになるのだが、果たしてそうだろうか?
私見によれば、村上隆の作品も、会田誠の作品も、
芸術ではなくて、ネガティブな
デザインであると言うことになる。
もっともこういう私の意見は、極めて美学的であり、そしてフォーマリズムの視点からの批判であって、
もはや、無効であると言う反論がくるであろう。
さてさて、話は、立場によって、むずかしいすれ違いになるので、
ロックの話に戻そう。
産業ロックの中で、一つの議論はジャーニーを巡ってであるという。
ジャーニーの音が、良いのか、悪いのか?
彦坂尚嘉のアートの格付けでは、
ジャーニーは、典型的な《1流》バンドの音である。
私には、こうした音の問題よりも、
反対側の問題が気になるのである。
それはニューウェーブ・ロックの
音楽の肯定的な面を、
無批判に肯定したままで良いのか?
と言う問題である。
たとえばスージー・アンド・ザ・バンシーズの音である。
女性ボーカルのスージー・スー (Siouxsie Sioux) を中心として1976年に結成された
イギリスのパンク、ニュー・ウェーブのバンドである。
ゴシック・ロックの元祖的存在とされている。
私自身は、ニューウェーブの時期に、1枚買っていて、
最近、伊東直昭さんの影響で、また買い出して、聞き込んでいる。
好き嫌いで言えば、好きである。
格付け的には、《超1流》の音で、
非常にレベルの高い音楽である。
《超1流》
《2流》
《3流》
《4流》
《5流》
《6流》
《7流》
《8流》
《想像界》《象徴界》《現実界》三界同時表示
固体/液体/気体、三様態同時表示
非実体、非合法的
文句の無い、高度なロック芸術である。
しかし《1流》性が欠けている。
この場合に、意識的に《1流》性を欠いているのである。
カウンターカルチャー(対抗文化)という枠組みを意識したロックと言うのは、
意識的に《1流》性を欠いた音楽を作っている。
カウンターカルチャー(対抗文化)は、
伝統的・支配的な文化に対抗する文化という意味で、
1960年代~1970年代にかけて、よく使われ、
私自身も、いわゆる反体制派であった。
1990年代には、オルタナティブカルチャー(オルタ・カルチャー)という言葉も使われているという。
このことの問題である。
こうした音は、どこから始まったのであろうか。
きちんと調べた訳ではないが、
たぶん、ベルベット・アンダッグラウンドからではないのか?
こうして《1流》しかないジャーニーと、
《1流》性の無いスージー・アンド・ザ・バンシーズが、
すれ違っているのだが、
はたして、こういう問題なのだろうか?
正直言って、ジャーニーは、悪いとは言えないのだが、
退屈だ。
そしてスージー・アンド・ザ・バンシーズは、大好きだが、
しかし、《1流》性を欠いたこうした音楽にひかれると言う
感性そのものを、私には、やはり疑うのである。
《1流》と言う社会性を欠くという形式が、
ロックとして完成してしまった時に、
やはり、問題であると思うのである。
社会性そのものを、こういう風に欠如させる、
そうした組み立てに、
本質的な原理としての疑問があるのである。
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《売り絵的現代アート》の氾濫のひどさを批判することは出来るにしろ、
それでもなお、村上隆の芸術起業論の射程は、
もう少し深いのである。
スージー・アンド・ザ・バンシーズにしろ、
アルバムを売り、コンサートでは入場料を取っているのである。
それと比較しても、現代美術(旧派)や、
現代アートの中で、売れていない作家たちの、
非・商業性とマイナー性は、異様なものである。
これはほとんど趣味の消費領域である。
多くの日本の現代美術(旧派)は、生産ではなくて、消費だけをしてきたのである。
作品を作ると言う事自体が、消費行動であるということができる。
そうした消費行動を芸術的生産と思い込んで来たと言うのは、
ある種の自己欺瞞なのだ。
そういう人間が、
私をも含めてだが、
こうしたカウンターカルチャーの音楽を面白いと言って聞く事自体の感性の底に、
音楽を聴いているのではなくて、
単に《1流》性の欠如を聞いているのではないか?
と言う疑惑である。
琴線に触れると言う言葉があるが、
人は何かの琴線だけに引かれている。
それが《1流》という社会性の欠如だけに反応しているとしたら、
音楽を聴いている事にならない可能性がある。
それは当然、逆の事があって、
ジャニーの場合《1流》性だけしか無い音楽への疑問である。
その場合は、《1流》という社会性しか聞いていない。
ジャニーだけでなくて、
そういう《1流》性だけの音楽はたくさんあるのである。
こうして私の趣味判断の比重は、
多層的多重的な表現に、価値の重点が移って来ている。
その場合、《1流》性をも含んだ作品で、
多層的多重的な作品が、重要であるのではないか。
そうした作品こそが、良い作品と言えるのである。
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はじめまして
とても興味深く拝読させていただきました
スージー・アンド・ザ・バンシーズ
好きか嫌いかと言ったら、好き♪です
すんごいわかります
でも...描き手としては、それを意識しちゃおしまい。
って感じがあるので、とりあえず忘れてたいです(笑)
>《1流》性をも含んだ作品で、
>多層的多重的な作品が、重要であるのではないか。
>そうした作品こそが、良い作品と言えるのである。
すいません、ダラダラとオヂャマしました〜
by FUCKINTOSH66 (2008-04-30 15:36)
書き込み、ありがとうございます。
スージー・アンド・ザ・バンシーズは、今でも聞いていますし、
ズーと聞いて行くと思います。
by ヒコ (2008-04-30 20:30)