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湯浅譲二の電子音楽(2) [音楽]

湯浅31.png
(1からのつづき)

■ 白い長い線の記録 (1960)を聴いた。
松本俊夫の映像についた映画音楽である。

〈超1流〉〈超1流〉〈超1流〉
現実界の音楽
気体音楽

良く出来ている音楽だが、
聴いている私の中に意味が構成されない。
聴き終わっても、記憶に残らない。

ホワイト・ノイズによる「イコン」 (1967)

チャンネルでの完全上演は2度目で、
1度目は1969年の代々木体育館のインターメデイアで、
私はこれも見ているので、2度目である。

これも工芸的とも言えるほどに良く出来ている音楽だが、
私の中に体験の内容の意味が構成されない。
聴き終わっても、聴いたという記憶はあるが、
ホワイトノイズを加工した音楽といった外部的な記憶と、
湯浅氏が強調するような宇宙的な音であったという以上のものが、
残らない。
《空》なのである。
何も無い。

湯浅氏の音楽は多くの賞を受けている。
ベルリン映画祭審査特別賞 (1961)、1966年および67年のイタリア賞、サン・マルコ金獅子賞 (1967)、尾高賞 (1972、88、97)、日本芸術祭大賞 (1973、83)、飛騨古川音楽大賞 (1995)、京都音楽賞大賞 (1995)、サントリー音楽賞 (1996)、紫綬褒章 (1997)、恩賜賞 (1999)、日本芸術院賞 (1999) 。

しかし聞く側からすれば、
CDを買っても,何度も聴く音楽ではない。

これはどうしてであろうか?

それは現実界の音楽だからである。

現実界の表現は、斬新で、面白いのだが、
しかし意味を構成しない。

想像界、象徴界、現実界の3界を持っていないと、
人間に真に感銘を与える大芸術にはならない。

何故に、湯浅譲二の音楽は、
現実界しかないのか?

それはジョン・ケージの影響を受け、
鈴木大拙の著作に傾倒しているからである。

つまり《禅》主義なのである。

だがしかし、禅宗というのは、
人類の精神史の中で、
すぐれたものであるのであろうか?

何よりも鈴木大拙の著作はすぐれているのか?

そもそも禅宗というのは、不立文字を原則とするために、
中心的経典を立てない宗教である。
つまり文字そのものを否定しているのであって、
したがって、鈴木大拙の著作を読んで禅を学ぶという事自体が、
禅宗の本質に反している。

禅を学ぶ基本は、師資相承を基本とし、
つまり先生からの直接的な関係でうけつぐことなのである。

つまり禅の本質は、文字を使わないという不立文字と言う性格にあるのであって、
鈴木大拙は、私見では、インチキということになる。

鈴木大拙を、私も読んでいるが、
彼の著作は推敲を重ねたものではなくて、
著作数だけは多いが、どれもイージーライティングであって、
私は感銘を受けなかった。

湯浅譲二氏がすでに述べた様に《超1流》のすぐれた音楽家であり、
その音楽も《超1流》《超1流》《超1流》である、
すぐれたものでありながら、
しかし、繰り返し繰り返し愛聴できる様な音楽ではなくて、
本質的な錯誤を含んでいるものと、
私は思う。

その錯誤を語ろうとすれば、
鈴木大拙批判から、禅宗批判、
さらにはジョンケージ批判までを必要とする様な、
たいへんな作業になる。

つまり、
それほどに深い部分で、
湯浅譲二の音楽は、
本質的な錯誤を内包している音楽であると思った。


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