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湯浅譲二のコンサートを聞く(加筆2)/時代の転換 [音楽]

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湯浅譲二のコンサートを聞いた。

作曲家・川島素晴さんと、同じく作曲家・山根明季子による
eX.(エクスドット)は、がんばっていて、
なかなか聞きごたえのある回顧コンサートだった。

■ ピアノのためのプロジェクション・エセムプラスティック (1961)

この演奏会冒頭の曲で、12の断片からなる図形楽譜の曲で、
川島素晴さんのソロ演奏であった。
前衛の音で、しかも硬質で、印象深かった。

1961年の作曲という事も、刺激的で、
歴史的には、前年の1960年にはテリー・ライリーの弦楽四重奏曲が登場していて、短いフレーズを繰り返すミニマリズムの技法が使われていて、それがミニマリズムのスタイルとなり、1964年の「In C」tというミニマル音楽の有名な曲になる。

湯浅譲二さんという人は、1929年生まれ。
音楽は独学だそうで、学歴的には慶応大学医学部出身である。
1951年に結成の《実験工房》に参加している人で、
したがって、1950年代の前衛音楽家と考えて良いのではないか。

つまりミニマルミュージックの登場する前に音楽的な身体性がある作曲家であるのだろう。

そういう意味では、
1950年代の初期の曲を聴きたかった。
「はじめにすべてありき」ということが言えるので、
1950年代の曲にこそ、湯浅譲二の出自が記録されているはずなのだ。

不確定性を持った図形楽譜を使っているという事では、
フェルドマンやジョン・ケージの影響の曲であって、
1950年代というのは、ジョン・ケージの「発明」の作品が多い持代なのである。
この最初のピアノ曲以外にも、
不確定性を持った曲はあったし、
基本的にケージの前衛神話の生きている時代の作曲家と言えるのかもしれない。

■観息 (1964)

これも1960年代の初期作品。
今回の演奏のために発掘された曲で、44年ぶりとのこと。

サイコロを振って進む、発声の音楽。
これも偶然性の音楽。
曲そのもののコンセプトは早いと思うし、良いのだが、
演奏者が後ろを向いていたのは、観客としては不満があった。

■電子ギターのためのプロジェクション―死者の奢り (1968)

電子ギターを使っていて、
これも、この手のものとしては音楽的には早いのではないかと思うが、
演奏はなかなか良かった。

演奏は1970年代のものから、2000年代の現在のものまで、
幅広く行われたが、
私の私的な興味は、どうしても初期作品に集中してしまう。

演奏された曲目が、前衛性、実験性の高い、普段なかなか
演奏されない曲目ばかりを選んでいることもあって、
かつてあった《前衛》という、そうした精神と形式が、
くっきりと見せつけられた思いがする。

音楽そのものは、超1流で、
ジョン・ケージの音楽の8流性とは違うものである。

写真で見ても、湯村譲二氏のお顔は立派なもので超1流である。
演奏もみな大変にすぐれていて、
たいへんに良いコンサートであった。

少し気になったのが、
音楽が何にによって成立しているかである。
聞き手にとっても、何を聴かされているかである。
その場合《前衛》を聴かされても、困るのである。
《前衛》の目的化では、音楽は成立しないし、芸術そのものが成立しない。
その辺に、少し疑問が無い訳ではなかったのだが、
しかしこの日に聴いたのは、必ずしも湯浅譲二氏の代表作ではなかったのだから、
もう少し勉強してみたいと思う。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

実は画商のAさんに会って、
このコンサートに誘って、一緒に聴いた。

かれは大変に知的な人で、
湯浅譲二氏の音楽も楽しんでくれた。

かれは奈良美智を初期に買って行って大成功した代表的な画商で、
会田誠も買っている人だ。
その話を、コンサートの後に飲みながら聴いた。
きっかけはテリー・ウインターズで、今、国立近代美術館に入っている作品も、
Aさんの所にあったもので、
このテリー・ウインターズを介して、
奈良美智の異質性を速くにとらえて、成功したのだ。

テリーウインターズの作品展開というのは、
もともと彼はジャスパー・ジョーンズの助手をしていて、
初期作品は象徴界の作品だったが、それが想像界の作品に移行して成功する。
(その後に、作品は現実界の作品にまで、移行する。そして終わった。)
その意味で、それは奈良美智の想像界の作品に橋渡しするものがあるのである。

このAさんが画商を止めて、農業に移ろうとしている。
20年のこの時代に見切りをつけたようである。
それにしても農業をやるというのも、極端な選択だ。
画商に疲れたようであった。

先日の会田誠さんとの座談会でも、
会田さんが変貌しようとしているというか、
疲れているというか,
行き詰まっているというか、
そういうものを感じた。

噂では奈良さんも制作が出来なくなっていると聞く。
某美術館が奈良個展を企画したが、制作出来ない事をもって
断ったという噂である。

私見では村上さんの展覧会も朝日新聞の報道とは逆に、
一つの終わりを感じさせるところがある。
回顧展が、アメリカ水準のきちんとした学問的な回顧展になっていない。
ランドセルも不出品だし、
初期作品が出ていない。

他にも噂はいろいろ聴くが、感じるのは、
この20年という時代の終わりである。
何よりもこの20年を担った人々が疲れ、
飽き、そして限界に達している。

そしてアメリカの経済の弱体化と、
日本の沈没、崩壊である。
この激動によって、
1991年からの約20年が終わるのかもしれない。

2010年代は、暗く寒い冬の時代かもしれないが、
新しい表現の時代がくる。
そういう予感が強く湧くのである。

私のまわりも、やたらに元気が無いが、
希望を持てるのではないか。
私は冬の時代が好きである。


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コメント 1

コア

偉大な絵画の世紀、17世紀は現実に気象学上の冬の時代でありました。
2011年以後は気象は分かりませんが確かに冬の時代となる予感を共有いたします。
by コア (2008-03-30 20:28) 

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