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会田さんとの座談会(3) [アート論]

《気》派レオナルド・ダ・ヴィン.jpg
このところ追いかけてきたローアートの問題で言うと、
会田誠さんとの座談会は、
大変に大きな収穫があったと言える。

会田さんの方法というか、イデオロギーは、
「美術が扱うのは本質ではなくて、表面だ」というものである。
これは最初の『会田誠作品集 孤独な惑星』の(1頁)に書かれている。

そこで話が石膏デッサンになったときに、
レオナルド・ダ・ヴィンチの修業時代のデッサンを見せた。
((上の図版の右の黒っぽい方が、レオナルド・ダ・ヴィンチ)

結果はレオナルド・ダ・ヴィンチを選ばないで、
同僚の無名作家のものを選んだ。
(上の図版の左の白っぽい方が、無名作家。)

無名作家のものを選ぶ気持ちは分かるけれども、
この無名作家のデッサンは、
布の皺の向こうに人体が存在していない。

表面を問題にしても、その向こう側の存在を見なければ
〈超1流〉の絵は描けないのだけれども、
それを会田さんの方法は、切り捨てている。

人類の美術史を見れば、
すぐれた美術は、実は本質を問題にしてきているのであって、
会田さんの主張は事実に反するのである。

しかしそれは多くの人の方法と一致している。
多くの人は、表面の、ほんの上っ面だけで物事を判断している。
会田さんは、実に多数派の方法を使っていると言える。

つまり会田誠さんの主張は、
美術の問題ではなくて、
社会の問題なのだと言える。
「社会が扱うのは本質ではなくて、表面だ」ということになる。
これは、かなりの名言ではないだろうか。

私の問題に帰れば、
では8割の人々が、会田さん的な表面で生きているとすれば、
その人々を切り捨てるので良いのか?
と言う疑問である。

実際に私の回りでお付き合いいただいているアーティストでも、
ローアートを作っている作家が多い。

この辺でぐるぐる回りしているのだが、
ハイアートとローアートの両方を、
同じ絵面の作品で作り分けるべきではないのか?

かといって、上の2つのデッサンを1人で描けるわけではない。

別の対策を考えることと、
もう一つは、
ローアートを作ることで、
もう一つのハイアートをさらに過激に追求する事が可能になることである。



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共通テーマ:日記・雑感

コメント 4

コア

イラストを芸術として提出する事は技術的にはできますが、ぼくの場合観客をどこかで軽蔑しないとできないですね。それが厭で、イラストを描けない作家は多いのではないでしょうか。

by コア (2008-03-19 21:53) 

コア

10年くらい前に、「現代美術」専門の画廊にグリンバーグをまったく知らないスタッフがいて驚きました。「現代美術」は環境に最初からあったので、勉強する必要を全然感じていないのですね。

そう言う人たちは「神については関心はないがお守りは購入する」という人々のように、「芸術」について考えるとか学ぶとか一切しないし聞くのもいやがりますが、町にある個々の作品はよく見て生活の彩りにしているのです。

そこらへんの観客がそうであるのは仕方がないが、美術館や画廊のスタッフがそういう人達だと一定の権力を持ちますので困りものです。
by コア (2008-03-20 11:28) 

ヒコ

最初のお話は。難しいですね。イラストを描けないのか、描きたくないのか、それは個人によって違いますが、基本的には誰でもイラストは描けると思います。それに対して、芸術的なデッサンは、誰にでもできるものではありません。

時代認識としては1968年から1975年で、芸術の時代は終わったと考えます。ですから、芸術とは何か?という疑問そのものは存在しなくなったのだろうと思います。
by ヒコ (2008-03-21 15:57) 

MIZUCHI

少し異なる観点かもしれませんが、
どうも日本の洋画教育においては、西洋の明暗法(キアロスクーロ)によるデッサン方が正しく伝えられていないのではないでしょうか。
安井曽太郎の滞欧時の裸婦デッサンなどは、日本ではほとんど神様扱いされていますが、あれはフランスのアカデミーなどでは、全く評価の対象にはならないそうです。
それには明確な理由があるのですが、ほとんどの方はそれを知りません。
by MIZUCHI (2008-06-10 15:18) 

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