《ジェンダ》再論 [アート論]
2007年9月22日(土)
本日はアートスタディーズです。
地下鉄銀座線・京橋の、国立近代美術館フイルムセンターで1時より、あります。
ご参加ください。
希望者は、電話を私にください。090-1040-1445
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昨日の日記「《ジェンダ》のぶつかりあい」の続きです。
佐々木薫さんの作品に、文句を付けているのを第3者が見ると、相当にひどく見えると、思う。
しかし条件としては、たとえば佐々木薫さんのハガキの案内状に「ガ〜ン☆となぐられるような御批評承りたいです」という書き添えがしてあったのです。今までも美術の話を、何回かもしてきたという事情がある。だから厳しい批判をしたのです(笑)。
実際は、忍者以外は、大変に良かったので、
「もったいない」と思ってしまったからです。
それでも根本の問題は、彼女が、すばらしい頑張りと、〈超1流〉の良いセンスを持ちながら、それが天然で、素朴に自分の個人的な感性や、個人的な思考を信じているという、ある種の自然主義的な、自己中心性があるという、ことです。
芸術というのは、確かに個人的な事で、個人の感性の素朴さを信じて言いように見えるのですが、実はそうではない次元もあるのです。
つまり、汽車が走るようになると、美術も変わる。
エッフェル塔が出来ると、美術が変わる、という時代の変化に対応して変わるという、時代の表現性がある。
だから、岡本太郎の「対極主義」の主張は、
冷戦構造という東と西に世界が割れて軍事的政治的に対峙するという時代の構造と、
密接にむすび着いていた。
そして現在のように冷戦が終わってしまうと、「対極主義」的な構造の美術は、古くなる。
佐々木薫さんの女は看護婦のコスプレで白服、男は忍者の格好で黒服というのは、この古い「対極主義」への退化であって、つまらなく見える。
それと男女差を大きな対極に考えることも、古い《ジェンダ》の構造であって、まずいのである。今は、男女を《対極》ではなくて、《類似》で考えて行く時代です。
つまり個人の私的な感性だけでなくて、時代の新しい感性を追求していかないと、コンテンポラリー・アート(同時代美術)としての感性が出てこない。
この私的な感性そのものの、《反省》という構造が、重要なのです。
芸術というのは直接性ではなくて《反省》性を基盤にしている。
それが、素朴に、「男が看護婦さんのコスプレをすると、変なおかしみが出るのでまずいから、忍者のコスプレに変更した」という、泥縄式の自然主義的感性の組み立ては、あまりに普通の生活者のものになってしまう。
そういう意味では、佐々木薫さんは素朴な、反省性をもたない感覚で現代美術をやって来ていたように、思えた。どうも《去勢》されていないのである。
《去勢》の問題が大きいというのは、最近の私のテーマになっている。
佐々木薫さんだけでなくて、彦坂敏昭さんも、加藤力さんも、ASADAも《去勢》されていないから、私は、生に作品を見ない方が良いように思う。
ただ、感じるのは、私の考え方自体が古いというか、今の若いアーティストは、《去勢》されないままに来てしまっているのである。
それはそれで、時代の変化で、《去勢》が無理になるのは、仕方がない。
《去勢》するためには、いじめて、殴る必要がある。
そういうことの出来ない時代になってしまったのだ。
それに私自身の美術の追究が、しだいに深いものになって、素朴な感性の人には、ついてこられないものになってきている。
だから作品をつくることと、文章にしていくことに絞り込みたい。
実際にコミュニケーションは、なるべく、気お付けて、控えた方が良いように思える。
そうは言っても、完全なゼロには、出来ないだろう。読書会やアートスタディーズをとおしての媒介性をもったコミュニケーションをしたい。
それと《去勢》された、アーティストの発見に注意を振り向けたい。
身の回りで言うと、清水誠一さん、エサシトモコさん、秋本珠江さんは、《去勢》されているアーティストです。かれら《去勢》されたアーティストとの間では、もっと、大人のコミュニケーションが、出来るかもしれない、という夢は、あります。
佐々木薫さんは、作家として力があるし、〈超1流〉の感覚があるから、それを見ないようにするのは寂しいが、しかし20世紀中の作品だけに、期間限定した方が、トラブルが減って、いいように思う。











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