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デコンストラクションの建築と《内向的精神》 [アート論]

2007年7月8日(日)

下の写真はオランダ人建築家レム・コールハースの《カーサ・ダ・ムジカ》
ポルトガルのポルトにあって、内部の建築ツアーに参加してきました。

 ジジェクではなくてルネ・ジラ−ルの『欲望の現象学』だった。自分の欲望が、他人の欲望のコピーであるという。隣のおじさんが自動車を買うと、自分も欲しくなる。その欲望は、コピーであるにも関わらず、直接にリアルで、真実であると感じる。しかも自分の欲望の実現が、他者の賞賛によって満足するという社会ゲームが、人生であるという。ラカンも同様のことを言う。自分の欲望は、他者志向で、他人の欲望のコピーなのだ。

 であるとすると、人間は社会の外に出られなくなる。他人の欲望のコピーの連鎖が、社会である。ここは欲望の牢獄である。
 もちろん社会という欲望の牢獄の外に出なくて良い。むしろ社会の中に入って、生き残る事こそが大切なのである。 
 したがって、社会の外に出ることなど、考える意味はないのだ。しかし、太平洋戦争のように、日本社会が全体的がおかしくなっていく時には、この社会の欲望をコピーして、そのコピーとしてしか自分の欲望を持ち得ないという生き方も、寂しい限りである。

 私は敗戦の1945年の翌年に生まれたから、だから、戦中の日本人の大政翼賛界的な言論統制に、深い不信感がある。80パーセントの人が信じる事を、信じることが出来ない。戦時中のようなひどい社会状態の時には、社会の外を生きることも、考えて見る必要があると思えるのである。

 もっとも高校3年生の時に、コリン・ウイルソンの『アウトサイダー』が出版されてベストセラーになって、これを読んだせいもあるのかもしれない。80パーセントの人が信じる事を、疑ってかかる性癖があるのだ。

 東大に合格すると言うことが、明治以降の日本の社会の他者の欲望で、その欲望があるから、自己の中にも東大に合格したいという欲望が生まれる。自分の欲望は自立していなくて、
日本社会のコピーなのである。

 美術で言えば、芸大に合格したい。死んだ山中信夫という友人アーティストは、3年も浪人して芸大に挑んでいた。そういう受験の競争の欲望をコピーだけすると、奇妙な事が起きる。 
 芸大出身のアーティストに、若いときに誰の美術が好きだったの?、と聞くと、十分な答えが返ってこない例が多い。どうも美術が好きではなかったようなのだ。美術ではなくて、芸大が好きなような人が多いという印象なのである。

 ちょうど女性が好きなのではなくて、ハイヒールとか、お尻とか、部分だけを愛するフェティシズムの欲望のようなものである。丸ごとの女性は複雑で手に負えなくて怖いから、女性を部分化してしまう。そういう部分だけに欲情するフェティシズムの様に、美術をトータルに見ていく難しさを避けて、日本画だっけを見るとか、逆にアメリカ抽象表現主義だけが好きとか、最近だと奈良美智だけが好きとか、さらには芸大だけが好きだという風に、美術を細分化して、分かりやすい部分だけを愛するのである。

 私の場合は逆で、小学校一年生から日展の油彩画家に絵を習って育った美術オタクのせいか、美術全体が好きなのである。全人類の作った美術を、出来るだけ広範に見ようとする。もちろんそんなことは不可能だから、広く浅くしか見られないんだが、それでも全領域に目配りしていこうとする。
 
 他者の欲望を自己の欲望として受験勉強の精進して、芸大に合格し、そして他者からの賞賛を得ることで満足する。こういう充足が、美術家になることを意味するのであろうか?と、私の欲望は、受験制度に対する疑いを持つ。

 芸大を卒業すると、何をしたらいいかわからなくなるというアーティストにも、何人も会ってきた。こういうアーティストの存在も不思議ではある。
 もちろんこういうアーティストだけが芸大出身者ではないので、これもまた失礼な部分化ではある。
 言いたいことの基本に戻ると、社会の欲望をコピーするだけで、芸術は成立してきたわけではないということである。
 セザンヌ一人とっても、そういう社会的欲望から絵画を推進して来ただけであるとは、言いにくいのである。違う推進力があったのである。もちろんだからといって、セザンヌが完全に脱ー社会化しているかといえば、そんなことはないのであって、社会化することを、むしろ、何度も挑んでいるのであって、それはすばらしい。私の意見は、社会からの脱落を主張しているのではない。もう少し微妙なことに興味があるのである。

 とにかく、他人の欲望をコピーする欲望ゲームが社会であり、人生であるとすると、この外に出ることこそが、芸術や哲学、そして学問の問題になる。
 
 つまり他者の欲望をコピーする事以外の方法の模索である。

「社会の欲望をコピーする故に、我あり」とする社会存在の外に出るという意味で、デカルトの「我思う故に我あり」とするコギトの発見は、人類史の中で、大きな破壊力を持つことになった。

 教会の支配した当時のヨーロッパにおいて、「社会の欲望をコピーする」限り、そこで見いだされる自己は、同じ教会の欲望をコピーした自己に過ぎないからだ。そこからは、地動説を生み出したガリレオのような思考は出てこない。
 
 他人志向的な自己の外に、他人の欲望とは別の、純粋な探求を展開する《精神としての自己》を見いだすことは、革命的であった。

 これを受け継いだキルケゴールは、『死に至る病』の冒頭で、「人間とはなんであるか? 人間とは精神である。精神とは何であるか? 精神とは自己自身との関係である。」と書いた。

 この自己自身との関係として見いだされる精神は、社会の他者の欲望をコピーする事で生まれる《外向的自我》とは別の、《内向的精神》である。
 
 《外向的自我》と、自己自身のとの関係によって生まれる《内向的精神》とは、ずいぶんと違うものである。
 
 この事を思い知ったのは、建築家たちと『アートスタディーズ』という勉強会を開催するようになってからである。建築関係者と美術関係者とが、ずいぶんと違うのだ。

 建築関係者はたいへんに優れていて、美術関係者はできが悪い、この事は『アートスタディーズ』の第一回目で、強烈に気づかされた。何しろ、美術関係者は、時間一つ約束を守ることが出来ない。20分のレクチャーを依頼しても、1時間しゃべってしまい、他人に迷惑をかけるのだ。

 そのくせ、建築関係者が時々漏らすのは、建築家の不純性である。

 建築は、クライアントの欲望をコピーする事を起点にしてしか、基本としては成立しない。
 つまり他者志向的な創造活動が、建築なのである。
 そういう意味でそれは純粋芸術家ではなくて、デザイナー的なのである。あるいはコミッションワーク・アーティストなのである。
 
 ソヴィエトが崩壊した1991年以降、《内向的精神》は社会全体を支配する力を急速に失っていく。

 社会主義的正義感の幻想と、芸術は、奇妙に連動していたのかもしれない。

 それはまた、モダンアートの純粋芸術の衰退でもあった。

 モダンアートを成立させていた《内向的精神》は影響力を弱めて来たように見える。

 だが一方ではニートや引きこもり、フリーターに見られるように、社会性を欠いた《内向的精神》だけの人々が、大量に出現して来ている。
 その人たちが下流社会化して来ているのである。
 
 一方、逆に建築を《内向的精神》化したのは、デコンストラクションの建築であるかのように、私には見える。彼らの建築は、従来のクライアントの欲望をコピーすることを起点とした建築とは違う創造力が働いているように見えるのである。

 たとえばのイラク・バグダッド出身のイギリスの建築家ザハ・ハディッドの建築は、《内向的精神》が作り出したように見える。見えると言っても、私はまだ本物を見ていない。

 彼女の恩師であるオランダ人建築家レム・コールハースは、2つ見ている。シアトルのシアトル中央図書館と、ポルトガルのポルトに建つ音楽講堂の《カーサ・ダ・ムジカ》は、内部まで見ている。

 もう1人の脱構築主義者であるダニエル・リベスキンドのユダヤ博物館(ベルリン)も見ている。

 もう1人、フランク・ゲーリーのシアトルセンターに建つExperience Music ProjectとScience Fiction Museumも見ている。

 ラカンは、「我思わぬ故に我あり」と言い、そしてまた「私は他者だ」という。私自身が他者であるという認識は、正しいと思うが、しかしその先は無い。自分が他者であって、他者も他者のコピーだから、コピーが繰り返されて行って、劣化が起きる。どんずまりの他人志向の末で、建築は反転しているようにも見える。《外向的自我》が、他者志向から《内向的精神》に反転する場所として、デコンストラクションの建築を、私は面白く見てきた。それ以上に深い共感で見てきたのである。 

 一方美術は、《内向的精神》を反転させて、《外向的自我》化してきている。
 芸術家の外向化を主張し、成功したのが村上隆だと言えるかもしれない。少なくとも彼の著作である『芸術起業論』は、そうした著作である。

 建築は《内向的精神》化し、美術は《外向的自我》化してきていると、私には見える。
 
  


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コメント 7

太田杖

芸大を出た事が美術家として大きなアイデンテティを成している人が近所にもいますね。志が低いのではないかと思ってしまいます。
by 太田杖 (2007-07-10 17:29) 

彦さま

不思議な人が多いですね。
by 彦さま (2007-07-15 04:43) 

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